普通の生活とは何だろう
もはや言わずもがなではあるが、誰しも生活環境が激変していると思う。
僕はというと、家でできることなどほぼないにも関わらず突然、週2~3日の在宅勤務を命じられたので、会社に行くことが少なくなってしまった。僕の業務内容では会社でないと仕事ができないので、ただただ業務が滞ってばかりで頭を抱えている。正直なところ、これでは普通に出社した方が精神衛生上良い気がする。
仕事が終わらなさすぎて、この前は会社に7時半に出社したが、これでも足りないので、今度は7時に出社しようかと考えている。これでは本末転倒だろう。7時だったら誰もいないから仕事は捗るかもしれない。
過去を振り返っても仕方がないのだけれど、それでもやはり、あのときしっかりと対策を講じていれば、とは思う。そして、今でもまもとな政策を打ち出さず自治体に丸投げしている政府にはもはや何も期待はできないし、呆れている。
ネガティブなことしか書けないのはもはや仕方がない。でも、そこで留まっていては時間の無駄だ。先のことを考えないといけない。偶然にも最近、聴いた音楽や読んだ本が未来のことについて表現しているものが多かった。本能的に身体が求めているのかもしれない。
今日は僕の誕生日だ。もう29歳になる。母親からはLINEで「20代最後やな」と来て、父親からは「今は大変な時期ですので、お身体と気力を持ち続け精進するよう祈っています」と来た。特に父親の方のLINEは、スマホを使い慣れていないからか、誤字脱字だらけだ。何とも堅苦しくて、父親らしい。
僕は誕生日の日には必ずnoteを更新するようにしている。誕生日が大切だからという理由ではない。理由は他にある。
4月13日は僕の誕生日であると同時に、僕が大好きなplentyというバンドが解散を発表した日だ。
そのときの文章には下記に載せておく。
plnetyは2017年4月13日に解散を発表した。2017年と2018年の誕生日の日に僕はnoteを更新している。なぜか昨年は更新していない。昨年も更新しているとばかり思っていたが、なぜだろう。どういう心理状況だったのか今となっては思い出すこともできない。
2017年4月13日のnoteを見てみると、永遠に続くと思っていた僕の大切なバンドが解散を発表したことによる混乱が窺える。それと打って変わって、翌年の2018年のnoteはもはや達観したかのような出来事が書かれている。そう、確かに2018年の誕生日には何も起きなかった。あれが僕にとってどれだけ幸せだったか。
では、今年はどうだろうか。もはや言うまでもなく、感染症の蔓延で世界中の人たちの生活を変えてしまった。僕は、冒頭に書いた通り職を失うような事態には陥ってはいないが、感染症の蔓延により働き方そのものを見直さないといけない岐路に立たされている。もっと言えば、それにより以前よりも心理的ストレスは大きい。仕事上でやり取りする相手は、今回の緊急事態が原因かどうかわからないが、皆一様に苛立っているように思う。かなり疲弊しているのだろう。
僕は2017年と2018年のnoteを自分に起きた出来事として書いた。自分にとって「普通の生活」とは何だろう、ということだ。
noteでは何度も引用しているが、この「普通の生活」とは、plentyの“普通の生活″という曲のことだ。もう一度、歌詞を引用しておく。
暖かいスープとうたた寝と
疲れの無い身体と余った休みと
まだ片付けなくていい机の上と
そう、僕が望むのはこんな普通の生活
そんなものはない
そんなものがあるはずないだろう
約束の時間にあわてないこと
やり終えた宿題と進むペンと
意味のない夜更かしと長電話と
そう、僕が望むのはこんな普通の生活
そんなものはない
そんなものがあるはずないだろう
こんなことさえ僕の憧れている生活
歌詞を見てみるとわかる通り、普通の生活なんて「そんなものはない/そんなものがあるはずないだろう」と繰り返される。今のこの緊急事態では、あまりにも辛辣だなあと思う。
どうして普通の生活が送れないのだろうと考えると、ウイルスへの憎しみは当然あるとして僕はどうしても怒りの矛先が同じ方向に向いてしまう。ツイッターやnoteでも僕はその怒りを書き連ねてきたが、多くの人が今の精神状況では見たくないと考えているようだ。それはそうだよなと思う。
今日は朝起きてすぐにONE PIECEの16巻を読み返した。15巻の途中まで読んだところで止まっていたが、16巻まで一気に読んだ。ONE PIECEのファンであれば、誰もが知っているチョッパーの過去が描かれている巻だ。もう何度読み返したかわからないのにこんなにも感動するとは思わなかった。苦境に立たされても負けずに立ち向かう姿は、何度読んでも忘れていた何かを思い出させてくれる。
毎日のニュースを見ていても、この政府にはもう何も期待できないという諦めの感情しか持つことができない。怒りは収まらないし、今後も怒り狂うことが予想される。
でも、怒りの感情に塗れていても僕の中に新しい何かに触れたときの新鮮な喜びが残っていることがまだ救いだ。
今はまだ誰しも普通の生活なんて送ることはできないし、誕生日ケーキをコンビニに買いに行くこともできない。できるかもしれないが、買いに行かない方が自分の身のためだろう。
いつになったら平穏が訪れるのか今の段階ではまったく先が見えないけれど、いつか来るそのときには、怒り狂ったことはそっと胸に仕舞って、新しい何かに触れて喜べる日が来ればいいなあと思う。
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