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テセウスの電車は今何を思ふ 〜vol.1〜

 あなたはテセウスの船、という概念をご存知だろうか。これはパラドクスの一種であり、ギリシャ神話の伝説の一つでもある。内容を要約すると、「物体の老朽化した部品をすべて入れ替えて、その結果元の部材が一つもないとしたら、それは元の物体と本質的に同じと言えるのか」という物である。私はまだ学生なので、この話題について明確な話題を出すことができないが、実はこの伝説をまるで映し取ったかのような人(?)生を送っている電車が存在する。現在もなお生きながらえ、首都の変貌を生で見てきた小さな電車。今回はこの非常に興味深い小舟を、何篇かに分けて追っていきたいと思う。

 かつて、東京には都電と呼ばれる交通期間が血管の如く張り巡らされていた。現在も多くの観光客や沿線住民に親しまれている荒川線は言わば歴史遺産のような存在であり、かつての都電は全盛期で41系統(バスの数え方と同じ)を数え、当時の鉄道愛好家をして「カオス」と言わしめた一大インフラであった。
 時を遡ること70年、戦後復興を乗り越え高度経済成長の直前期に入った都電は、深刻な戦前車両の老朽化に悩まされていた。この対策として進められた新型電車開発の中に、欧米の新路面電車プロジェクト「PCCカー」を利用した計画があり、これはやがて5500形という電車で実を結ぶこととなる。この5500形は流れるような綺麗なボディ形状を多数用いており、このデザインを元に日本の従来の技術で安価に作った新型車両も同時に製造された。これが今回の主人公となる「東京都交通局7000形電車」である。
 全体で90両近くが製造され、都電の各車庫で運用されたこの形式だが、生まれた時期が悪かった。製造から十数年が経った頃には、都電はクルマ社会の邪魔者となっていた。都の指令で都電が次々と撤去される中、時の都知事であった美濃部亮吉は、最後まで残った2つの系統を、ほとんど道路と重ならない為に交通機関として恒久的に残す方針を取った。
 この時、この残存路線用に残す車両として白羽の矢が立ったのが、まだ新しかった7000形である。こうして、7000形を始めとする若い車両によって構成された「都電荒川線」が再スタートを切った。

今回はここまで。次回は都電荒川線発足から、2015年までを一気にお話したいと思う。

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