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すき家も吉野家も牛丼屋に変わりはないが牛丼だけでもない

今日は友人と遊び呆け、普段外では吸わないタバコを沢山吸うハメになり、ダーツで勝てなかった悔しさもあってか、今日はnoteを書くネタが思いつかないなりに、すごくテキトーでずさんな文章を書いてやろうと思う。3日目にしてネタが思いつかないのがダーツより悔やまれることの様な気もするが、実際これからもそんな感じにはなるんだろう。

最近なのか割と前のことなのか俺の足りないおつむじゃ分からないが、家の近くに吉野家ができたことにとても敵対心を向いてしまったことがある。

その理由は俺が高校を卒業し社会人になった5年前から完全なるすき家信者であったからだ。仕事の夜勤帰りに、すき家で買った牛丼を持ち帰りし、スーパーで買ってきたストゼロを飲みながら食べることが世界で1番の至福だった時期もある。

なんなら夜勤が早く終わった明け方の4時過ぎにすき家で飯を食って腹を満たしたせいか眠気に襲われ帰り道に車で居眠り事故をした19歳の経験も今となってはすき家への愛あるエピソードのひとつとして語れるぐらいだ。

昔からこだわりを持つことが大好きな俺は吉野家や松屋を食べたことがないくせに、すき家こそが最高であると自分の中で決めつけ他人の「吉野家派」「松屋派」に対して攻撃的な態度をとるまでに悪化をしていた。逆にあまり聞かない「なか卯派」や「かつや派」には憧れを抱くようなこともあった。

そんな中家の近くにできた吉野家はオープンしたばかりのせいか人が沢山集まるようになり、今までは満席になりがちな行きつけのすき家が空席だらけの状態になったのだ。

俺は酷く軽蔑をした。今まで仕事帰り辛い顔をしながら牛丼を口にかけ込む他の男たちを俺は知らぬ間に仲間だと意識をしていた。それが吉野家ができたぐらいですき家を離れるようなやつだったことを知り裏切られた気分になったのだ。そんな弱い精神を持つような奴らは元からすき家なんぞには来るなとさえ思った。

冷静に考えてみれば、人が少なくなり空席も増えれば俺にとっては好都合ではあるのだが悲しい気分になってしまったことは間違いない。

しかし、俺を変える出来事があった。あの「まぐろたたき丼」がすき家のメニューに隠れ忍んでいることに気づいてしまったのだ。見た時はこんな見た目のものが美味しいわけが無い。誰が牛丼を食う神聖な場所でこんなものを食うのだと腹の底からバカにしてやった。でも、その時の俺はスーパーでは高くて手が出せない刺身やお魚類をとても欲している体になっていて、気がつけば勝手にやつを注文していたのだ。

このくだりからわかる通り、涙が出そうになるほど美味しかった。熱くて汗と涙と鼻水をダラダラ流しながら食べる金曜日の二郎系ラーメンよりも、家に帰って食べるスーパーの唐揚げ弁当よりも、そしてほぼ毎日俺に力を与えてくれていた牛丼よりも、暖かく俺を包み込んでくれるような酢飯とマグロの食感が俺を襲った。こんな見た目だとバカにしていた「まぐろたたき丼」に俺は全てをひっくり返されたんだ。

それからというもの吉野家のタルタル南蛮唐揚げ丼の美味しさを知ることができたり、憧れだったなか卯やかつ屋にさえ足を踏み入ることだってできた。

牛丼屋だからといって牛丼の美味しさだけで店自体を判断する。ましてやすき家が好きだからと言ってすき家以外を軽蔑してしまうことはあまりにも愚かだ。何事にも見た目や偏見で判断するんじゃなく、実際店内に入り食し体験することで思わぬ感動を見出されることを学んだ。

これは牛丼屋だけでは無い身近なこと全てに言えることではないだろうか。俺はどうしても見た目や偏見だけで物事をモノサシで判断してしまう癖がある。しかし色々なことに寛容性を持って触れていくことで人間としてもっと成長できる。

そう思った俺は今度の仕事帰り、まだ足を踏み入れたことの無い松屋に出向くことを決意した。


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