生命力信仰

 生命至上主義は生命を神聖視し、なにがなんでもその維持につとめようとする。デモクラシーの社会においては、国家社会の基盤となる宗教が溶解するために、それにかわって生命至上主義が、デモクラシーの価値観と手を携えて、生成する。デモクラシーは現世における経済活動を絶対視するが、そのためには人間の生命および長生は必要である。それゆえ、生命市場主義は、デモクラシーにとって好適な世界観である。
 いかなる肉体的苦痛、精神的苦痛をも乗り越えなければならないというのが、生命至上主義の訓戒である。しかも、それはそこに、試練や苦行という神学的意味や意義を献呈するわけではない。生きることが最高の幸福であり、それ以外の幸福など認めないという信条を押し付けるにすぎないのである。いわば、来世とは現世なりという、或る意味での偏頗な信仰によって、つまり生命そのものを神であるとみなすことによって、それ以外の信仰や信仰対象を奪うということを大胆にもやってのけているのである(共産主義はその最も過激な形態である)。
 肉体は仮の姿である。これは宗教の定立であろう。生命は死んでも魂は生き残るというのは、ロゴスであると同時に宗教の本義でもある。その思考が無くなったときには、宗教は意味をなさなくなる。そして、その時、生命至上主義が登場する。肉体こそが、生命こそが、人間存在の本質であるという宗教が誕生するのである。
 心身の苦痛に狂うあわれむべき人たちを見て、その肉体と生命を解消することに協力するのは、仮にそれが来世での彼らの魂に対する罰の発生につながるかもしれないとしても、少なくとも、来世との関係性の維持を損なうわけではない。肉体と生命の活動を止めることが造化や祖先の意志に反するのであれば、その怒りを甘んじて来世で受ければよいだけのことである。そして、その罰が他の憎むべき悪しき犯罪とはちがって、小さな罰として済ませられるであろうということを人間は先天的に理解できているはずである。
 だが生命至上主義はその関係性すら放棄するのだ。それゆえに、それは基本的な善悪の観念をも超越して、生命至上主義について言々火を吐くことを恐れない。たとえば、犯罪や悪行の被害者の名誉よりも、その加害者の生命を守ろうとする態度はその象徴である。

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