見出し画像

てゑちゃん

最愛のばあちゃんが天国に行った。
名前はてゑちゃん。享年101歳。
本当は、「天恵」で「てるえ」だったそうなのだが、役場の手違いにより「てゑ」になってしまったらしい。孫の私に向かって「本当はてるえだったんだよ」とブツブツ言っていたが、103年前、そんなに役場は適当だったのかい…??
93歳くらいまでは、ちょこまか歩き回り、京王デパートの北海道展や駅弁フェアを楽しみにして叔父との二人暮らしなのに、大量に買い込んできたりしてるばあちゃんだった。大概、食べきれないので、遊びに行った私にやたらと勧めてきて、贅沢三昧のいくらと鮭の親子丼を食べている最中に、「これはおかずにどうだい?」とイカめしを勧められたりしていた。いや、てゑちゃん、イカめしはおかずではないと思う。

もち米がぎっしり詰まった美味しいご飯。…おかずではない。


食いしん坊な人で、買い物が大好きだった。でも、おしゃれは苦手。なので、買うものは大抵食べ物。
とっても小柄で、130cmくらいしかない。で、行列を見ると大抵並ぶ。でも、130㎝だから先頭が見えない。何が売ってるのかわからない。でも並ぶ。
加えて少ない数で買い物ができない性質(たち)なので、叔父と二人暮らしなのにたい焼きを5匹とか買ってきて、遊びに行った私に「たい焼き食べるかい?」と勧め、私がたい焼きを食べている最中、「これもどうだい?」とたい焼き季節限定白玉入りも勧めてくる。祖母の家から帰るときは、必ず訪れた時より2キロは増量していた気がする。
思春期の頃、身体測定が近い時期はてゑちゃんの家に行かないようにしようと気を付けていたのも今となっては懐かしい。
子どものころ、てゑちゃんの家に泊まると、私と母と妹は二階に寝て、てゑちゃんは一階にの茶の間を片付けて布団を敷いて眠っていた。
朝6時ころ、階段を下りて茶の間に行くと、早起きのてゑちゃんはいつも起きていて、たいがい早く死んでしまったじいちゃん(享年49)の仏壇に向かって手を合わせていた。私に気が付くと、「ママには内緒だよ」と、隠していた「ぼんたん飴」をくれた。おやつの時間でもないのに、まだパジャマなのにおやつを食べられる時間…これはなかなか幸せなひと時で、私はぼんたん飴をねだりに一生懸命早起きしていたものだった。途中、妹がお姉ちゃんはおばあちゃんからおやつをもらっている!と、気が付いて、一緒に茶の間に向かってくるようになってしまったので、私とてゑちゃんの秘密の時間は終わってしまった。

キヨスクでの最長老なんじゃないかと思われるお菓子。とにかく虫歯になります。


80代後半になり、耳が遠くなってきたので「補聴器をつける?」と家族が勧めると「そんな年より臭いもの嫌だよ」と却下され、90代に入り、歩くのが大変そうになってきて「杖を使うと楽みたいだよ」と家族が勧めても「そんな年寄りが使うものは使いたくないよ」と却下された。いったい、てゑちゃんにとって年寄りとは何歳からだったのだろうか…。
目は異常によかったので、耳がほぼ聞こえずともテレビは、字幕で理解をし(字幕じゃまだな…と思ってたけど、需要があるのだな…)、家族は耳元で叫んで会話する日常を過ごしていたてゑちゃん。

とにかく褒めてくれる人だったので、自己肯定感をあげたいときに会うと復活できる。人間関係が上手く行かなかった若い時も、恋愛がうまくいかなかった若い時も、仕事で不安になった時も、てゑちゃんの存在は大きかった。てゑちゃんがいたから、乗り越えられたことが多々あった。
もちろん母親が支えてくれているのは百も承知なのだが、母とは違った距離感で祖母がいる感じは、本当に支えだったと思う。

私の写真と記事が載る新聞を発見した瞬間のてゑちゃん(叔父撮影)

90代後半からは、デーサービスや訪問看護を受けながらも最後までお家で過ごしたてゑちゃん。それもこれも叔父のおかげなのだけど。
デーサービスでは、介護士さんから優しくされてちょっとしたアイドルになっていて、なんとデーサービスのHPのトップページに堂々と登場しているのだ。

看板娘だ!と家族は大騒ぎ。

最後の入院になった病院でも、看護師さんからは苗字ではなく「てゑちゃん」と呼ばれていたので、優しくされていたのかしらと思ったりして。
自分からべらべらしゃべることは一切なくて、ほとんど聞き役。批判を挟まず評価もせず、「そうだね」と受け入れてくれる。こんなばあちゃんになりたいけれど、なれるんだろうか。

もう最期になるかもしれない日。早朝に家族全員が集まると、持ち直したてゑちゃん。ホッとしながらも、「夜間は付き添われますか?」との看護士さんの問いかけや、呼吸が苦しくて顎が上がってしまっているてゑちゃんを見て、お別れは今日か明日かもしれないと覚悟した。
20時からの打ち合わせが22時半に終わったので、終電までてゑちゃんの病室に行き、ただただ手を握った。苦しそうな気配はない。けれど、もはや苦しさも感じられないだけなのかもしれない。このまま朝までベッドの隣で座っていようかとも思ったけど、コンタクトが乾いてしまい、眼鏡を忘れたものだから目の痛さが限界で「てゑちゃん、眼鏡取りに帰るから朝まで待っててね」と情けない言葉を残して帰宅。4時前に看護士さんからの電話が入って、始発で病室に妹と一緒に駆け付けた。
病院の受付で、また看護士さんから電話が入り「さきほど、呼吸が止まりまして」と伝えられ「今、病院につきました!」と叫ぶように返事をして、病室に駆け上がった。病室のベッドで静かに眠るてゑちゃんからつながれた機械は、0の数値を指している。妹と一緒に「おばあちゃん!おばあちゃん!」と必死に呼びかけると、数値が0から12くらいまで復活し、数分だったけど天国に行くのを待ってくれた。
どうしても、てゑちゃんが死ぬ瞬間に一緒にいたいという願いは叶った。

毎年、家族が大集合した高円寺の阿波踊りでのてゑちゃん。

私は、無宗教なのだが神様はいるような気がしている。息子(小1)との一緒にする想像では、宇宙のはじっこのその先に天国があるという設定になっている。
っていうか、天国はあってほしい。
本当にあっていただきたい。
死んだらなにもなくなるっていうのは、あまりにも悲しい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?