「いつか、青果売り場で売られる梨を見て泣く日がやって来る」をよんで。
素晴らしい文章だった
フクダウニーさんの「いつか、青果売り場で売られる梨を見て泣く日がやって来る」をよんで「たんぽぽ」をよんだところで、
ちょうど二年と少し前に虹の橋を渡ったうちの末っ子こと、犬を思い出した。
犬は私が小学生の時にむかえたダックスフント。冬休みを目前にしたある日、母が「スキー旅行と、ペットどっちがほしい」というので私は迷いもなくペットと答えた。
そうしてうちに犬はやって来た。
こじんまりとした生まれて3ヶ月の子犬はちっさめの段ボールに入って我が家にやってきた。
母の提案で名前は、"家族団欒"から「ラン」と名付けられた。犬は名前の通り、家族が喧嘩すれば毎回吠えて仲裁してきた。
犬とは小学校、中学校、高校、大学、社会人の時間を一緒にすごした。
でも犬の人生は短くて。
私は満を辞して社会に飛び立ちのびのびやりたいことをやりだすとき、目の端にうつる犬はみるみるおじいちゃんになっていた。
前よりご飯を食べなくなったな。前より体力無くなったな。前よりすこし痴呆がはいってるな。
前よりよくわからない夜泣きが増えたな。なんだかおじいちゃんだな。なんて。
そんな日々だった。
前は泣かなかったのに、夜になると、いつも一晩中ワンワンワンワン吠えてた。
犬は、家族を取りまとめるために吠えてもこんなかがままみたいな吠え方はしなかったから。
もー。しっかりしておじいちゃん。
なんて思ってた頃犬は16歳を迎えていた。
ある日リビングから、バタン!!!!!!!
という音がした。
1秒沈黙の後、母が「どうした!!!」と何かに駆け寄った声を出すから我々兄弟もリビングに集まると、
てんかんをおこして白目剥いて体を捻じる犬がいた。
ずっと元気な子だからびっくりした。
数ヶ月前の健康診断で問題はなかったのに。なんで。泣きそうになりながら家族で病院に連れて行くと犬はもう手遅れなガンだったことが判明した。
手術はもう歳で耐えられないかもしれない。
余命は2週間だと告げられた。
それでも悩んで手術ができないか探ることも含めて手術お願いをすることを決めた。
私は藁にもすがる思いで手術当日、犬を病院に送ると、急いで遠くの病気治癒の神社に向かった。
だけど、もう目の前神社につくとき電話が入った。「やはり手術ができる段階をとうに超えているからその日が来るまで家族で看取るのがいい」手術はできなかった。
そこから犬は3週間生きてくれた。
時々てんかんをおこしては、
その度に犬が今日今、ここまでの命なんじゃないかと身が雑巾みたいに搾られた。
そういう時は自分が安心したいがために、夜間だろうと救急病院に連れて行って何万もお金を使って1秒でも命が繋がることを願った。
何度も何度もカートに乗せてあちこち行った。
ガンで辛いのは犬なのに、私は泣いてばかりいた。
頑張ってくれてありがとうと何度も撫でた。
呼吸も辛そうな犬の横に布団を敷いて夜は一緒に寝た。
でも私は仕事も忙しくなってきた時期で
なぜか余命宣告の間仕事がものすごく忙しかった。1秒も長くそばにいたいのに。
犬はご飯も食べなくなって、
母は「もうそろそろかもしれない」といった。
何なら食べてくれるか私はいろんなものを毎日買い漁った。ササミ、牛肉、チーズ、なんなら食べてくれるか。よし、今日はヨーグルトのジュースを少しあげようと深夜の仕事終わりセブンイレブンで選んで、深夜12時を過ぎたころ駆け足で家に帰った日、
帰ると
安らかに眠る犬がいた。
最後に飲んで欲しかった。吟味したヨーグルトジュース。
私はこうして末っ子の死に目には会えなかった。
最後は自分のベットによろよろと歩いて最後を迎えたみたい。弟と母の口ぶりから、
幸せそうに最後を迎えたときいた。
立派な犬だった。
この末っ子の死は私にとって衝撃だった。
いっつも張り合って成長してくれたのに、
この子は人間じゃなくて犬で。
思ったより短い人生をいつのまにか何歩も先を歩いてまっとうしていたんだなと。
犬のことは今も度々思い出す。
そういう意味では、
確かにお別れというのはしばしの別れで
私の人生には確かにその時期に存在していたわけだから。
また会う日まで。と思うんだ。
フクダウニーさんの「たんぽぽ」の一つめの短歌、本名に掠りもしないあだ名達どれで呼んでも君は笑った、
がまさに。
その後私は、仕事をする意味とか、いろんなループに入って休職して人生を休憩する。暇で通った映画館で西島秀俊さんっていう映画スターに出会うんだけど。
おかげで転職もして今元気なんだよね。
私は誰しも「いつか、青果売り場で売られる梨を見て泣く日がやって来る」とおもう。
フクダウニーさんすてきな文章をありがとうございます。
また話そうね、犬。