大御心、それは日本精神の原点

人はこの世でたった一人でも絶対、裏切らない人が居ればそれだけで生きられると思う。それは、たった一人でも良いと思う。日本人はすべてが「絶対に裏切らない人」を知っていると思う。
私はそれは「天皇陛下」だと思う。
それを疑問と思う日本人は果たしているだろうか?
私はいないと思う。



西洋で構築された「法」には「自然法」と言う概念がある。
日本にはそれを超越した概念がある。
それが「大御心」だと思う。
「大御心」が日本人の「おもてなし」「和の精神」「道徳」「武士道」これらの原点だと思う。

「民のかまど」(仁徳天皇)
「自分の地位を守るため、国王がメシアを殺す」
(新約聖書: マタイによる福音書
第2章「13 彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った、「立って、幼な子とその母を連つれて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜がし出して、殺そうとしている」。
これは西洋人と日本人の精神が異なる原点だと思う。

「西洋一神教文明の価値基準である個人の自由や人権の思想を適用して論ずるといった謬りを犯す人が屡々(しばしば)出る故であります。その謬りを犯す人々は、西洋文明の自稱(じしょう)する普遍性が日本民族固有獨自の傳統すらも包攝(ほうせつ)するものと誤信します。ですからその人自身は立派に天下の正論を述べているつもりで、實はその思考こそが日本の國體に眞向から違背する亡國の謬見(びゅうけん)であることに氣がつかないのです。」
「このままではいけない。國と皇室の将来の姿は、敗戦と占領から生じた變革(へんかく)以前の原形に立ち戻らなくてはならないという認識が漸く眼覚めた如くであります。」
小堀桂一郎会長「祈願詞」引用
小堀先生の乃木神社にてのお言葉に全ては表現されてると思う。

靖國神社に御親拝頂けない現実を「A級戦犯合祀が原因」とされる意見を聞くが、それはいわゆる「富田メモ」が発端だと思う。
「富田メモ」は元侍従長がメモに「昭和天皇による松岡、白鳥が合祀されたことの批判内容。」が記してあった。と朝日新聞が報じたことによるが、そもそも「富田メモ」の存在自体遺族が明らかにしたとされている。富田侍従長本人が明らかにしていない。これは「東京裁判での南京事件に関する牧師証言」と似ている。又聞きをさもさも見たように話す。
遺族が富田侍従長と同じ思想ではないとしたらどうなるのか?
つまり天皇制反対だったら、どうなるのか?

数年前にNHKで放送された「昭和天皇拝謁記」もしかり。
ここで話題になったのが「昭和天皇の戦争責任への言及」「昭和天皇は戦争責任をお考えになられていた?」
これも遺族が公開した。遺族の思惑が如何に?

これを話題にすることすら、国民は自らを貶めていることに気がつかない。
プロパガンダに踊らされている。
「日本人」が気づかない。小堀先生のおっしゃる通りだ。

私は「不敬罪」復活を望む。
同じ日本人同士で足を引っ張り合うのを見るに耐えない。

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