バカの壁は本当にあるのか?あるのは思考停止の壁か?

どうも百田尚樹カルトどす。

さて人類の活字離れが指摘されて久しいこのごろはYouTubeにロートル世代も参入し、いよいよボケ老人の繰り言のようなコンテンツやガキ向けのチンコなコンテンツで沸騰している。

さらにネットコンテンツのアルゴリズムは強力で、人々を低能コンテンツの反復に誘導してゆく。
そうしてエコーチェンバーをつくりあげ大衆の思考力を簒奪し、消費の奴隷にするのがやつらの狙いだ。

馬鹿ほど広告効果が高いのでいかに思考停止した馬鹿をつくりだすかに資本主義はやっきとなる。

もはや何も自分で考える必要はない。ジーザスキャンプで洗脳をうけた福音派プロテスタントのように、現代猿はジャンク動画の反復で脳を溶かされている。

本題に入ろう。
養老孟司は、バカの壁があるという。人にはどうしても理解できない限界があり、それが馬鹿の壁というわけだ。

たしかに数学のミレニアム問題とか僕には一生かけても一ミリも解りそうもないので、個々人にそういう壁があるのかもしれない。

あるいはウィトゲンシュタインの私は私について言及できないとか、眼は眼自身を見れないという比喩話も人によっては理解できないらしい。
つまり馬鹿の壁があるわけだ。
もっとも眼で眼が見えないという喩えは、喩えであって、やや解りにくいのではあるが。

平均的な人はウィトゲンシュタインのこの話が分かるのだろうか?試してみよう。

ウィトゲンシュタインの話は簡単で、ようするに自身を対象化すると対象の私と対象化する私でズレるわけだから、この、対象化する私自身(主体)は捉えられない(言及できない)というだけのことだろう。
自我(自己対象)と主体(自己対象化)との差異があるといってもいい。

この話はクオリアとかハイデガー、ラッセルの議論を加えてもう少し高度に論じることもできるのだが、素朴にはこの程度のことに過ぎない。
読者は理解しただろうか?

この程度ならバカの壁といっても、どうということはない、哲学か心理学の本を読む人ならこの手の現象学的思考は嫌というほどやってきているだろうから、どんな馬鹿でも理解している。ようするに、こうした思考に馴れてるかどうかは大きい。

さて、すると馬鹿の壁などあるのだろうか?

僕自身、本を読むようになる前なら、ウィトゲンシュタインの極基礎的なこうしたことを、いまのレベルの明確さをもって理解するのは難しいだろう。

というのも最近、昔読んだ論文を読み返すことがあるが、かつて難しくてどうしても解らなかったことが今読むと普通に解ったりするからだ。

たとえばアリストテレスの時間論の細かい論理や、物理学における時間の向きは、観測行為によって生じてるに過ぎないという議論などは、数年前の僕には曖昧にしか解らなかった。

しかし数年の読書を経て、明快に理論的解説が可能なレベルで理解できるようになった。

実際に物理学の時間において向きが観測においてしかないことを解説してみよう。
物理学が用いる客観的時間はアリストテレスがいうような空間的時間に等しく、観測と観測の間は存在しない。
つまりゼノンの矢だ。
いうなればデジタルなメモリのような飛び飛びの今しかなく、各今は流れを構成しないので時間に向きが措定できない。パラパラ漫画みたいなもんでコマとコマの間なく時間には断絶がある。

ここで向きを生じるのは実存的規定としての観測の前後、アリストテレスでいう以前と以後とに他ならない。

さて、アリストテレスは時間について、以前と以後という観点から見られた運動の数である、と定義する。この定義はかなり有名なようだから知っている人もいるだろう。
ようするにアリストテレスは運動を飛び飛びの今として数えて時計的な時間としている。

ハイデガーはこの定義について、以前と以後が既に時間の指標であって、これでは時間において時間に出会う、というに等しいと見抜き、さらにここでの時間と時間はトートロジーではなく根本的にカテゴリーが異なる時間であって存在論的差異があると見抜いている。
このとき観測行為における以前と以後はいわば目的意識であり志向性、欲望と言ってもいい。
元来、今とはアリストテレスのいうような空間ではない。

それはディメンション、つまり自己としての伸縮をともなう非空間的かつ空間産出的広がりに他ならない。だから以前と以後とを産出する自己性を今という。客観は二次的だということ。この客観時間の二次性を論証したところにハイデガー哲学の達成がある。

これはコペルニクス的転回というべき発見であるが、一部の学者以外には、いまいち理解されていない節がある。

というわけで物理学における時間が向きをもっていない、あるいはどちら向きでも成立するという話は簡単な話。

今なら簡単に理解できることだが当時はこういうことは曖昧にしか解らなかった。
当時、自分がどう考えて解らなかったのかも克明に覚えている。

昔の僕は、木を観測する度に木に深い傷をつける、しばらくして観測するときも新たなに切り傷をつける、これを繰り返すと、いつその木を観測しても傷は減らない。増えるだけである。
であるならば時間とは事象の蓄積なのだから、加算されるばかりであってここに向きが措定されるのではないか?と考えてしまっていた。
これはエントロピー増大の法則として捉えてもかまわない。

しかしこの考えは時間の向きについての理解としては根本的に間違っている。そもそも事象の累積を問えるのは連続性が暗黙裏に前提されているに過ぎないからだ。
客観的時間は非連続なのだからその前の事象(今)とは独立している。
どんなに合法即的(加算的)に今が継起しようとも流れを措定することはできない。
今と今とが独立している限り、累積とか加算だとかはいえないわけだ。そこには流れは存在しない。
時間の流れは客観には属しておらず、存在であり自己性の側にある、このことの理解に対する正確性の欠如のために昔は理解できなかった。

今にして思えば、こんな程度の理論的思考もできなかったのかと呆れる。理解が曖昧だと少し深く考えるとすぐに混乱する。

ちなみに現代の理論物理学者のトップランナーの人も時間に流れがないという結論に至っている。これは当たり前のことだろう。以前だとか以後はそれを連続する主体の問題でしかない。

客観時間ということなら空間しかないわけだから飛び飛びの非連続にしかならない、本質的にはそれだけのこと。
マクロの物理法則は、かく今の変化を規則付けてるように見えるから話が解りにくくなってしまうが、流れが自己性によってしか生じないことが分かれば、誰にでも理解できる。

また空間とは人間の志向性に晒されているのであって、時間の向きや流れは、この志向性においてある。
存在と時間、存在者との関係は概ねこのような仕掛けになっている。これは現象学的に確かめ可能なことだから、思考力さえあれば誰にでも理屈は確認し理解できる。知識はいらない。

世の中にはこれが解らない人がいる。バカの壁であろう。
しかし数年前の僕もちゃんとは解らなかったわけだから、僕の中の馬鹿の壁は明らかに動いている。

つまりバカの壁というのは流動的なんであって固定などされていない。
むしろ馬鹿の壁とはその壁に気づかないときに動かなくなる。

解ってないこと、壁があることを理解しないと、その壁を押し込んでズラすということができず永遠の馬鹿となる。

そして壁を理解しないとは思考停止にも等しい。
つまりYouTubeでアホみたいな単純化した妄想に籠絡され、狂った陰謀論やらの類いに汚染されて解ったつもりとなる。
こうして壁が見えなくなると、もう何も考えない。
見えない壁の中で、馬鹿みたいに馬鹿なことをほざく。これが馬鹿の壁の正体であろう。
この意味で馬鹿の壁とは思考停止の壁に他ならない。

さて問題はここではない。
読書によりバカの壁を動かす行為が現代において何をもたらすかである。

まず世間は馬鹿の壁なるものを透明化し、解らないことなどないのだ!と言わんばかりに世界を単純化して、解ったつもりになる。
ようするに四方を壁に囲まれた監獄のような狭い見識に世界を貶めるわけだ。

こうして吹きあがった馬鹿が生産される。こうした猿は広告効果などの資本主義の要請にしたがって構造的に産み出されている。

彼らの世界には馬鹿の壁なるものは存在しない。だから絶対に自分が正しいと思い込んでいる。
もはや手遅れで議論はいっさい成り立たない。自分の理解できないことを言うやつは、デタラメを言っている!となるだけだろう。

じつはこれは最新の宇宙物理学の世界とまったく同じである。
というのも宇宙は内と外では時間の流れが異なるのだが。
宇宙の外部から宇宙の誕生を観測すると、小さい粒がだんだんと大きくなる様を観ることができる。
ところが同時刻の宇宙の内部では時間がずれているので宇宙はすでに無限近い広さにあり、限界をもたない。
つまり同じタイミングで宇宙を外からみると小さな米粒なのに内側から観ると無限大となっているのだ。このことは数学的に、ほぼ確実らしい。

これと同じことが馬鹿のインナースペースにもいえる。
こいつらのインフレーションする自意識には限界がなく、馬鹿の壁なんてものは存在しない。
馬鹿は外から見て矮小な馬鹿なんであって馬鹿の内部では神のごとき無限大である。

つまり馬鹿の壁を知るとは自らが自らの外にたつこと。そんなのパラドックスだというなら、超越論的視点を持つことと言い換えてもいい。
これにより、自己の宇宙の限界を知り、自分が小さいことを自覚することで馬鹿の壁はゆっくりと動き出す。

ようするに壁とは、じつは内部からは押し広げることは不可能で、外部から引っ張ることでしか広がらないわけだ。ここでいう外部というのは私の外、つまり自分の解らないことの領域に他ならない。この解らなさという外宇宙の空間に耐えることなしに壁は動かない。

ちなみにトリビア的な新しい知識の獲得は意味がない。そうではなく体系の組み換えが問題となる。既存の体系を破壊し組み換えること、これが外に出ることである。
たとえば時間ー物理的空間運動の数という連関構造を解体し、時間ー非空間の空間化作用という異なる構造に組み換えてしまうこと。このような体系の破壊が学問を学ぶということ、壁を動かすことになる。

現状の体系を維持し、クイズ王やら雑学王のように体系を横に拡大するような知の反復蓄積は、学問とはなんの関係もない。

これまでの体系と矛盾する体系空間を外部という。理解できない体系構造を理解することなしに壁は動かない。

近頃跋扈する反知性主義も、既にしってる内部体系(時間軸)を盲信する態度に起因する。

だから反知性主義に陥らないためには、理解できないもの、壁の外から壁を観ることが求められる。
まったく異なる法則で連なる外宇宙の混沌に耐えること、この姿勢において、知に開かれる。

まとめよう。内省がないと馬鹿になる、本質的にはこれだけだ。内省とは私が私の外から私を観ることで成り立つ。
このとき私の外部、限界は既知の自己体系の破壊、つまり死によってのみ可能となる。
自己肯定感なる幻想が、自己体系の保存であり自己体系の唯一化であることは明らかだろう。

内省する主体を近代主体と呼ぶわけだが、近代主体の解体とは、途方もないバカの襲来のことに他ならない。

内省しない馬鹿はジーザスキャンプみたいなものを絶賛したり、逆にどっかのアホみたく科学でホームレス殺害は正しいと証明された!とか言い出すことになる。

いまの日本猿を観てほしい、このレベルが膨張している。
僕の見立てでは人口の30%はこのレベルだと感じる。

恐ろしき馬鹿の集まりだろう。
というより主要なネット教祖を観ていて、普通の人は、こいつらを賢い!と思うのだろうか?
少なくとも学問的な知性は皆無にしか見えないのだが。
ヨビノリだとかのちゃんと専門的な学問を提供してる極一部のYouTuberを除くと、どのYouTuberもゴミに見える。

ところで無限に近いくらいに膨大な数となる平行宇宙では、国民の全てが僕らの宇宙の天才レベルの世界もあるのだろうか?
最新の物理学では膨大な数の平行宇宙の生成を想定せねばこの宇宙は矛盾してしまうというのだが。

ところで百田尚樹総帥はこれからは著者が本から撤退するという。ようするに猿は本を読まなくなった。本を書いても儲からなくなった。金にならないから本を書く人もいなくなる、というのだ。

これについては素晴らしい!としかいえないだろう。馬鹿が本を読まなくなるということは本が馬鹿から解放されるということだから、まともな本だけになる。
どんなにモンキーパークになっても、賢い人はいなくはならないから、賢い本の需要は変わらない。
そして本を書く人もいなくならない。金儲けで書くバカが消えるだけ。

資源ゴミがなくなると思うと溜飲が下がる。
そして馬鹿本が消えることで良書がピックアップされ、一部の人たちは本の素晴らしさを改めて知ることになるだろう。これまで資源ゴミのせいで陽の目を浴びなかったまともな本が目立つわけだ。

くだらない自己啓発本やらビジネス書が世界から消えるだけで、世界はよくなる。

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