「分人」とVの推し活について

なんの話?


これ↓
私とは何か 「個人」から「分人」へ, 平野啓一郎
https://onl.bz/5XcK36E
を読んで、最近思ってることをまとめる。

まず、どういう本?

分割不可能な「個人」を規定して、たった一つしかない「本当の自分」と複数の「表面的な自分」を区別するのではなく、その価値観において「表面的な自分」、あるいは「ペルソナ」と呼ばれていた、対人関係ごとに見せている別々の顔をすべて「本当の自分」とし、それらの総体を自分としましょう、という話。
その別々の顔をそれぞれ「分人(ぶんじん)」と呼ぶ。
「本当の自分」「主人格」と我々が感じるものは、「もっとも割合の多い分人」と言い換えることができる。単に割合の多寡を述べているだけであって、割合の低い分人を劣位に置いていないことに留意されたし。

なお、インターネットコメディアンのBUNZIN氏ではない。
https://youtu.be/6y2IEHT492M
読んでてこのワードが出るたびにこのおじさんのスマイルが浮かんで仕方なかった。
よく見たらチャンネル登録者数すごいなこのおじさん。

例えば「ネットとリアルのキャラが違う」も「分人」という概念を適用すれば、「どちらが本当でどちらがウソか」など不毛な議論だとわかる。どちらも本当だからだ。

「分人」というのは対人関係や作品との触れ合いに応じて形成されるものである。よって引きこもりは対人関係を物理的に断つことにより、それに対して形成された不都合な分人を消去しようとしている。
しかし、対人関係を断ってしまったことにより、新たな分人が生まれる余地も摘み取ってしまう。
引きこもりがちな若者が、悪い意味で「いつまでも若い」様をネットで目にしたことはないだろうか。彼らはいつまでも、引きこもる前に持っていて、対人関係を断ってもなお残っていた分人を、さながら学生時代の体操ジャージを部屋着にするように使いまわしているのである。

……といったようなことが書いてある。以後も適宜参照するが、詳細は「買って読んでね」ということで、ひとまずはここまで。

「分人」概念を推し活に適用してみる

コメントのキャラ分けと分人

(前提知識:筆者はVtuberの推し活をしている。それもにじ○んじやホ○ライブのような大手企業より、個人Vtuberが割合として多い。さらにその中でも、外見が所謂人型をしていないVtuberが多い。よってリスナーのコミュニティが大手企業V推しのそれよりきわめて狭い状態にある。)

見る配信によってコメント内容を意識して使い分けているリスナーはいないだろうか?私はある程度使い分けているつもりだ。
「初見は敬語、ある程度慣れたら常体」といったものから、配信ルールに細かい配信者かそうでないか、プロレスを許容するかそうでないかといった、YES/NOである程度分類できる配信者の属性や、配信者の好みそうな話題の方向性等を勘案して、そのときの脳のリソースが許す限り「下手なことは言わないように」務めているつもりでいる。

そうしていると、配信者によってキャラを使い分けているように感じることがある。
他にもっと分かりやすい例を挙げるなら、配信者にガチ恋しているリスナーがそうだろう。実際そういうリスナーはその配信者の枠だけ露骨にコメントの内容が情熱的だったり、気持ちを少しでも伝えようと長文になる傾向がある。

では私が使い分けているなと感じたキャラはすべて作り物なのか?ガチ恋リスナーはガチ恋してるときが本性で、それ以外の枠でコメントしているときは余所行きの、悪く言うと比較的どうでもいいときの顔なのか?
先の分人概念に照らし合わせるともちろん違う。私も彼らも、その時はその人なりに偽りなく楽しんだり、愛でたり、憂さ晴らししたいのである。

最推しと分人

「最推しは〇〇さんです」とプロフで明言したり、推しマークをプロフに羅列して帰属を主張するリスナーがいる。
私はそういうタイプではない。傾向としてよく見に行く配信者はいるが、明言することにより配信に行かなかったことに罪悪感を感じたりしたくないし、引退や休止されたときにこの世の終わりのような顔をしたくないからである。
断っておくが、面と向かって止めたほうがいいなど言うつもりも、その資格もない。ただ、「物理的に不可能になるまでずっと活動を続ける配信者はきわめて稀だ。いつか辛い思いをする可能性が高いのに、どうしてそんな危なっかしいことをするんだろう」とずっと不思議に思っていた。
分人概念においては、一過性の感情から芽生える恋ではなく、長期的な愛は「その人といるときの分人が好きな状態」とされる。その分人を愛することによって、自己を肯定できている、という訳である。
この解釈でようやく彼らの動機に納得できた気がする。彼らは最推しといるときの自分を心地よく感じている。自己肯定感が上がっている。
自己肯定の仕方について模索中の身である私は、ようやくそこで彼らとの共通項を見つけられたのである。

なお、当書においては持続する「愛」は自己犠牲的な献身の応酬より、お互いがお互いのお陰で居心地が良い状態を維持することによって実現されるのではないか、と述べている。最推しを明言するリスナー各位においても、そのような関係が続くことを願う。

推し活と自己肯定

当書では、一途な片思いとストーカーは、どちらも相手と自分の分人の比率の非対称性から生じるとされているが、その関係性を通して好ましい自分になれているかどうかで最終的に区別されている。ストーカーは当然なれていないほうである。ストーカーを「厄介リスナー」と言い換えると推し活に容易に置換できると私は思う。
つまり、推し活においては「推し活を通して自己を肯定できているか」が最終的に肝要なのだ。
「私はダメダメだけど、推しは今日も輝いているなぁ」は厄介リスナーに転じていなくとも危険な状態だ、ということである。
おい、聞いているか、一年前の私。

では当書ではどのように自己を肯定しているか?先も軽く触れたが、結論として「己の中のの好きな分人を足がかりにし、好きな分人を増やしていくことだ」とされる。
推し活に当てはめるなら、「この人を推しているときの自分が好きだ」と言える推しを作り、増やすことと言い換えることができるだろう。
増やすのは何も推しに限らない。推しの好きな音楽などを通じて音楽が好きになってもいいし、FA描いてて絵の楽しさに目覚めたのだとしたら、それを楽しんでいる自分も「好きな分人」なのだ。

分人主義における自己肯定は他者を通じてしかなし得ない。そう当書では述べている。
「いついなくなったり、理解できない動機で自分にNOを突きつけてくるか分からない他者に自己肯定の根拠を預けるのはやめよう。私単独で自己肯定できる方法を見つけよう。独りで強くなろう」としていたこれまでの私の自己肯定のアプローチは、分人主義の言うところのナルシシズムであり、したがって誰にも好まれることはない。
私としてもこの方法で半生を生きてきて、正直行き詰まりを感じていたのは否定できない。
この解釈を知って絶望はしなかった。
「人は一人では生きていけない」という少年漫画の主人公が悪役に諭すような綺麗事(『生活必需品は、毎日食べてたり飲んだりしているものは誰が作っているか?』とか、そういうきわめて現実的な話ではなく、人間関係の話)が裕福な家の子が貧乏な家の子にお金の大切さを説くような気持ち悪さを感じて子どもの頃から嫌いで仕方なかったが、ようやく「まあ、そうかもしれないな」と思えそうな気がする。

また、分人主義においては「自分が変わること」は「新たな分人を作ること」「分人の割合を変えること」によって成される、とされる。付き合う人間を変えたり、環境を変えることにより、分人の構成をカスタマイズしていく。
これは私見だが、「年をとると変わるのが難しくなる」は進学、就職など外的要因で環境がリセットしづらくなること、転職など、能動的に環境をリセットしても前の自分を使いまわしてしまい、人間関係において結局同じポジションに落ち着いてしまうこと、加齢により昔からの友人とライフステージがズレてしまい、いつでも遊べる友人の数が減ることなどから来るのだろう。
まあ、私にはいつでも遊べる友人は今のところいないのだが。

だが、推し活は、それを通じたコミュニティは、まだそうなってはいないはずだ。
「どうすればいいのか」の糸口を見つけて尚何も変わらないのか、それとも変わったのか。
それは来年の自分に聞いてみることにしよう。







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