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「香花を懐かしみ、紫を邀める 」第14話

 第1話
《 第13話


 降り出した小雪が風に流されて、丸窓の細い隙間から部屋の中へと滑りこんだ。僧衣に白く染みこむ六花の結晶は、梅の花が散るよう。燭に照らされて尚更金波がきらめくようだった。

「アコラスをここへ」

 マートルは箱から取り出した布に部屋の鍵を通し、雀の首に結びつける。

「来ないかもしれないぞ」

「あやつのことを、何もしらないのだな」

 ふと、息を零すような笑みを目にして、途端、雀はなにを――、と顔を赤らめて甲高く囀った。

「そっちこそ、知ったかぶりはよせよ」

「もうすぐ日が落ちる。僧侶たちは部屋に戻るから、誰にも気付かれずに来い」

「絶対に来ない。証明してやる」

 日は浅くとも、この、マートルという男よりはアコラスとの付き合いも長く、彼のことは生まれたときから彼の身体の中で片時も離れずに見てきたのだから、知らないことなどないはず。と、雀は胸の内で喧しく反論していた。

 それがあの口ぶりでは、まるでマートルのことになると、アコラスは逆らえない、とでも言いたげではないか。腹を立てながらも、アコラスの待つ部屋へと急ぎ戻った。

 厚く重ねた雲は茜色に灼け、零れる夕日の余光は一筋の道を示すかのようだ。

 アコラスの部屋は凍えるほどの寒さに覆われていた。

 雀の帰りを当てにするしかないアコラスにとって心は鬱屈に支配され、ひたすらに長い時間が過ぎていくようであった。どうやら本当に帰ってこないつもりでは、と気を揉むアコラスの耳に、ようやく鍵の開く音が触れる。勢いよく手に戻る雀をよくやったと優しくなでつけ、その首に光沢のある絹が結ばれているのに気がついた。

 解いて広げてみると、どうやら銀糸で綾取られた眼帯であるらしい。昼の光りさえ阻むように思われる。微かな温もりは魔をはね除けるまじないを施しているためか。

「マートルのものか?」

 雀を瓶に詰めながら、アコラスの気はそぞろと眼帯にうつりゆく。早く寺院を出ようと急かす声など少しも耳には入ってこない。彼はマートルの含んだ意に思案を巡らせていた。鍵だけでなく、わざわざ眼帯まで寄越すということは、何か意味があるに違いなかった。

 久しい再会に昔日を懐かしむような素振りさえみせなかった彼である。だが、かつてはこの寺院で、アコラスはマートルの従僧として過ごしてきた。無視していくわけにはいかない。

 雀の引き留める声は瓶をただ曇らせるばかり。

 外に僧侶の姿がないことを確かめて、そっと回廊へ忍び出る。出口を振り返りながらも素早く階段を駆け上った。何度と外套の裾を踏みそうになりながら、ついに最上階にたどり着いたとき、唐戸からゆらゆらと揺れる燭の淡い光りが漏れて、回廊に長い影を落としていた。

 戸の格子は吉兆の文様をはめ込んでいる。

 玻璃に施された金彩は、華奢な木犀が描かれていた。情緒を掻き立てるその枝の流れを伝うようにして、アコラスの指は冷たい戸を押した。

 僧衣の霞が流れ込むように、部屋の中は白くかすんでいる。

 薄く開けた障子の前に、息を零して杯を呷る、マートルの姿があった。

「待ち焦がれた。みろ、雪がとけて、流れゆく場所を探している」

 酔いに眩んだ彼の顔が、アコラスを目にかけて柔らかく相好を崩す。

 途端、アコラスは思いがけず注がれた目の色に瞬いだ。向けられたかったのは、その面差しだとの気持ちを押し殺し、彼を睨み付ける。寺院への酒の持ち込みは禁止のはず、この、悪僧め、との罵倒も、招き寄せるような彼の目つきに誘われては、つい口ごもった。

 向かいに座れと顎を決る。空ろな杯に満ちる幻は、朝槿の夢を見せる極上の酒である。

 アコラスに杯を進めて、枝垂れかかるような身体は片膝を抱いて寄りかかった。ゆるんだ衣から、浮かぶような肉色の肌が覗く。喉が擽られるほどの清らかな匂いが、アコラスの肌にまでしみこむようであった。

「挙白を濁らせれば、浮白に罰する」

 飲み干せと彼は言う。残せば罰として更に酒を飲ませるとも。アコラスは絶句した。

「戒律を破ってまで、酒をたしなむ趣味はありません」

「だが、私の要求には」

「十年も前のことです。もう、あなたの従僧ではない」

 手の内に眼帯を強く握り込み、アコラスは彼の向かいに腰を下ろす。手入れの行き届いたその楊は、まるで久久と長い間、主が腰掛けるのを待ち望んでいたかのよう。

 手が眼帯を握っているのを見て、マートルは頬を緩めた。

「顔を」

 見せろと、言葉少なに要求する。アコラスは咄嗟に外套を抱きしめて躊躇した。

 マートルの指は弛んだ水も再び凍り付くほどの冷たさである。耳の裏から輪郭をなぞり、顎の下へと滑らせて、持ち上げた顔に、自然と目があう。

「痛むか」

 重ねて問いかける声に、アコラスは小さく応じた。

「いいえ」

 片眼は瞼の下に禍々しさを秘めている。闇の中では昼よりもはっきりとものを捕らえ、月のでない夜半のうちでは竹の節さえ数えて見せるほど。朝日に照らされれば刺すような痛みに襲われて、アコラスはフードを外せない。その恐ろしさを刻まれた身体は顔を晒すことを拒む。

 光りを遮るように立ちはだかるマートルが、するりと眼帯を取り上げると、フードの隙間に手を差し入れた。

「法師はお前を失って迷情に堕ちた」

 耳の縁を掠め、頭の後ろをなでつけるような手の仕草。胸に抱き込むようにして眼帯の紐を結わえていく。薄い僧衣から伝わる彼の体温に、じわりと、汗が滲んだ。込み上げてくる嗚咽をのみ込み、絶えきれず、彼の身体を遠ざける。

 目眩に瞼を伏せ、耐えがたい嫌悪感に奥歯を噛みしめた。

「俺はただ、蠱業をやめたいだけです」

「ペチュンがやたらと熱心な様子だったが」

「蠱業をやめたいなら非天の王を殺せと」

「なに。非天の王を」

 マートルの視線は、冷たい風を掴むように外に向かう。流離う松の葉をじっと見つめ、薄く積もり始めた甍を憂う。

「雲南山か……。法師が戻ってくるまでには時間がある。行くなら今すぐでなくては」

 アコラスは立ち上がる彼の衣を引き掴み、腰を半ば浮かせて二の足を踏んだ。

「俺を自由にすると、約束してください」

 あのとき、アザムを呪って命は尽きるのだと覚悟した。しかし幸にも心臓は鼓動を刻んでいる。仮に今、非天の王の死骸を持ってきたところで、この身体を縛る人間がペチュンから法師に変わるだけ。ペチュンはおそらく、法師がアコラスに執着していることなど知りもしなかったに違いない。

「蠱業はやめさせてやれる」

 マアコラスは視線を落とし、握りしめた彼の裾を、そっと離した。



第15話 》

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門


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