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「香花を懐かしみ、紫を邀める 」第4話

 第1話
《 第3話


 醜い男とは噂にすぎない。まさか、こんな玉を秘めていたとは――。
 ペチュンは思わず唾を飲み、笑いを零す。
 月玉のような汗を指にからませ、細い顎を掴みあげた。伏せた瞼を押し開けようとした指に、アコラスが噛みついた。
「触んな」
 鋭く睨み上げる目つきに、ペチュンは彼の頬を打ち叩く。
「虫を売るだけで生活ができるか? 生きていくには金が必要だろう。蠱業に飽きたのならもっといい生業を教えてやる」
 アコラスは血の気が引いた。犬の様に忙しないペチュンの吐息が生暖かく肌に注がれると、開放された手は思わずテーブルを這った。
「あんたが何を、教えられるって?」
 咄嗟につかみ取った瓶を勢いよく振り上げて、ペチュンの横っ面に叩き込む。すると、落雷の轟音を響かせるようにして瓶が砕け散り、突如と空気にさらされた虫の群れが波打つようにペチュンの肌を覆っていった。
 百足や蜘蛛がおぞましく肌を這い回り、身体中を埋め尽くすほどの虫の量に彼は飛び上がる。
「アコラス! ……この野郎!」
 罵声を背に、振り回す腕をかわし、雀を押し込んだ瓶をかすめ取ると素早く水車小屋を飛び出した。
 駆け込む森は深い霞に満ちていた。烟りはしつこく身体中にまとわりつき、伸ばした指先は白くのみ込まれていく。踏み出す度に竹が行く手を遮り、笹は縋るように足首に絡みつく。息を切って背後を振り返り、追いかけてくる気配がないと安堵したその矢先、
「おい――、どこへいく」
 突如と現れた男が腕を捻り上げる。
 周囲を取り囲むのは大柄な男たちはどれも見覚えがある。ペチュンの後ろをついて回る、鬱陶しい男たちだった。
 外套を強く抱き込みながら、アコラスは男の手を振り払おうとした。
「逃がさねえよ。兄貴はどうした」
 手の中には雀たちの荒い吐息で曇った瓶が一つ。嘴を叩いて必死にわめいている。アコラスは喧しいと一瞥する。
 このままではいずれペチュンの前に突き出される。虫を浴びせたアコラスをただで済ますはずがない。
「あ、あぁ……」
 身構えるアコラスの前に声を低く響かせたペチュンが、まとわりつく垂れ絹を掻き分けるようにして姿を現した。頭髪から水を滴らせ水草を拭う姿に、どうやら川にでも飛び込んだらしいとわかる。激憤に染まった目は血走り、アコラスへと向かう足取りは恐ろしいほどに静かであった。
「俺に、相応しい男にでもなろうとしたのか?」
 軽口を叩きながら、強ばった唇を湿らせる。
「おい……、そいつを離せ」
 地を這うような声である。
 ペチュンの指図を受けて、男が荒々しく身体を突き飛ばす。アコラスは咄嗟に後退ろうとするが、背後は男たちに阻まれた。ペチュンの筋張った手が、ひき裂くようにして服の裾をまくり上げた。
「今更、どうしてやめたいなどとほざくのか疑問だったが、なるほど……、そういうことか」
 肌を斑に浮かぶ古い火傷痕を目にしながら、骨の隙間から垣間見える炎に目を向ける。蠱業の代償に払ってきたのはどうやら自分の命らしい、とペチュンは合点がいった。
 アコラスの手から瓶を取り上げて、曇った容器の中を回し見ると、つまらないと言いたげに投げ捨てた。
「虫を使え。望み通り最後の依頼にしてやる。非天の王の首を忘れるなよ。俺から逃れたいのなら、言うことを聞くことだ」
 取れ、と足下に打ち捨てた硯箱を顎で決った。アコラスはゆっくりと腰を下ろし、徐に筆を握る。ペチュンはその手首を引き掴むと、葉の上の露に筆先を濡らし、大地に名前を書き付けた。
 ――アザム。
 蠱の虫を乗せ、アコラスの血を垂らす。不穏に渦巻く霞みが重く垂れ込めて、草木は不気味にざわめきだす。
 腰刀を抜き放ったペチュンによってためらいなく虫が貫かれると、アコラスを中心にしてうねっていた陰の気は途端、幽鬼の悲鳴を思わせる鋭い音とともに吹き散った。
 風は灯心を舐めつけるように身体を拭っていく。呪いは大地に根を下ろし、冬ざれが躙り寄るように少しずつ命を蝕んでいく。
 ぎゅっと、胸元を握り、恐怖に竦む身体を抱きしめた。
 蹲るように座りこむアコラスの顎を、虫の体液を滴らせた刃が持ち上げる。
「非天の王の首を持ってこいよ。必ずだ。嫌ならいいんだぜ、死ぬ前にじっくりと地獄を味あわせてやる」
 アザムを呪い、心臓がどれほど持つのか、アコラスにはわからなかった。
 破れた外套を巻き付けて震える唇を噛みしめた。
「話しは通しておいてやる。都にこい」
 ペチュンは言い放ち、男たちを引き連れて霞みの中へと消えていく。



第5話 》

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門


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