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「香花を懐かしみ、紫を邀める 」第12話

 第1話
《 第11話


 切り立った岩頭に稜々とそそり立つのは、霧に包まれた海蘭寺である。白波は巌影をのみ込み、激しく砕ける波の音が四方から聞こえてくるようなところ。

 山肌に峙つ海松は孔雀の羽のように生い茂り、白らかな梅の木は花の香りを結ぶ。爽やかな風籟が青葉を染めて、草木が深く交わるその奥に、吉祥の獣を模る天禄が千紫万紅の装いで風露に戯れ、菱花をちりばめて消伏を表しているはずであった。

「北へは行くな。魔が蔓延っている」

 細い月影を踏むようにしてマートルは門の中へと入っていく。

 楼門を踏み越えた先に広がる境内は陰の気が重く立ちこめて、空は冥く閉ざされていた。落英に凋む花蔓は荒々しく生え渡り、それは残花の跡に旧夢を見るような空しさを抱かせる。

 清らかな寺院は見る影もない。この十年の間に何があったのかと、思わず唇を結ぶ。

 吹き曝しの回廊を巡る風に、吹き連なる花びらがひらめく。蕾のゆるんだ木もあるのだと、朝の陽に注がれるような明るさに誘われて、故郷を懐かしむ手が求めれば、それはとりとめなく零れていく灰であった。

 愁いを帯びたため息は春の夜のように朧と霞み、重く胸を塞いだ。
花のにおいは寥々たる野に沈み、境内に漂うのは僧衣から立ち上る皮脂のにおいだけである。

 蝶番が甲高く軋む扉の向こうには、椅子に腰掛けた男が天蓋の下の像とも見劣りしないほど柔らかな顔つきをして、穏やかな素振りでアコラスを迎えた。

「再び私の手に転がり戻ってくるとは、アコラス、夢にも思わないではないか」

 親しげな声であった。自ら出迎えようと立ち上がる彼はすかさず従僧を下げ、ゆったりとした足取りでアコラスへと向かう。

「さあ、どうした、アコラス。お前も何か、私にいうべきことがあるだろう」

 しんと澄み渡った寂静の心に、大らかさを持ち合わせた高僧。寂寞と物静かで憂えた海蘭寺を象徴するような男と記憶していた。

 だが、とアコラスは後退り、笑みを浮かべて促す彼の、異様な雰囲気に唾を飲む。彼こそが境内を腐らせる端緒であるように感じられた。それほどの禍々しさであった。

「法師プランツ。お目にかかれて……」

 圧倒されるように口を開けば、光栄だと告げようとした唇は伸びた指先に閉ざされた。黒い眼は怒りとも悲哀ともつかない感情を見せるようである。

「長い間、どこへ行っていた? お前の部屋はすっかり錆び付いてしまったぞ。マートル、彼を連れて行け。留守はお前に預ける。――宮殿へ」

 従僧は慌ただしく駆け出す。傲慢に捌くプランツの足音が扉の向こうに消えてなくなると、恭しく瞼を伏せていたマートルはすぐさまアコラスに目配せをした。
来い、と。

 アコラスは困惑した。

「ペチュンから、何も聞いていないのですか」

 じろりと、睨むような視線に射貫かれる。たまらず息を呑むアコラスは、彼が答えるまでの一瞬の沈黙を恐ろしく長い時間のように感じた。やがて、百草も霜に凍るほどのため息を口にして彼はいう。

「蠱業を使いたくないと、言ったそうだな。どのみち、ここにいては他の従僧や修行僧の目にとまる。奇異の目にさらされたくはないだろ」

 隔てがましい態度は十年との歳月の長さを思わせるようであった。万古の面影を懐かしみ、心窩を熱く下っていく寂しさを忍ばせて、アコラスは歩み出す。

 彼の言葉は一理あった。

 痩せ衰えた枯れ木が空を閉ざす下、すれ違う僧侶がアコラスを見送る目つきは侮蔑を含む。マートルに従う従僧も、アコラスを疎ましいと思うのは同じことであった。だが、彼らの様子はまた少し違う。蠱業を扱う彼を汚らわしいと思うと同時に、下僧同然のアコラスが、マートルによってもてなされていることが理解できず、僻んでいるのである。

 そうしてみすぼらしい外套に身を包み、道を閉ざした彼に与えられた部屋というのが、血や汗に錆び付いて天井は暗く湿り、冷たく冷気を上らせる埃まみれの、まるで独房のようなところと見ると、いい気味だと言わんばかりに冷笑を浮かべた。

 十年と経っても変わらないのは、どうやらこの部屋だけのようだった。燭台には虫の死骸をこびりつかせて、煤だらけの床には暗澹とした影が残る。天井近くの格子窓からは夕煙と烟った空だけが見えていた。

 マートルは薄い唇を静かに開く。

「食事は朝に一度。ここを出ることは許されない。鍵は私が預かっておく。何かあれば呼んでくれ」

 鍵を閉める金属音が空しく響き渡ると、彼は目もくれず淡々と立ち去っていった。

 遠ざかっていく足音は長い回廊をいつまでもこだまし、彼らの囁く声は風の唸りのように耳にこびりついた。

「こんなところがアコラスの部屋なのか?」

 息苦しそうに訴える雀に息を吐き出す。小さな身体は蓋が開くのと同時に伸び上がって飛び出し、アコラスの掌で口々に囀った。

「水車小屋といい、陰気な部屋が好きなんだな」

「寝るところはどこだ? 棚がないじゃないか」

「これなら水車小屋のほうがましだ」

 忙しなく首を巡らせる雀の姿に微かな笑みを零し、ああ、そうだな、と一言こぼす。

「外へ出られるだろう。マートルから鍵を盗んでこい」



第13話 》

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門


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