「香花を懐かしみ、紫を邀める 」第10話
飛び上がるように手を離す。血の気が引いた。
何かの間違い。ビオラという名前は呪った覚えがない。
法師と呼ばれた男を見やる。彼の身体もそこに、静かに横たえていた。
「目障りだった。神裔と信じる異端の宗教者たちだ。彼らを総じてアザムという。道を閉ざす恐れがある」
ペチュンが、冷え切った灰燼を踏みつけていた。
「アザム……」
なぞるように繰り返し、アコラスは震える。
全身の毛穴が粟立ち、鉛杭を打ち込まれたかのように腹の底が重く沈んでいく。凄まじい罪悪感に目が暗んだ。胸が張り裂けるほどの後悔である。
見て見ぬ振りをしてきた罪深さ。人の人生を奪って生き続けてきたこと。それも、多くの人の命を。
おそろしくてたまらなかった。
ゾッとするほどの冷や汗が溢れでる。ますます怖気立ち、気は遠くなるよう。
罪を逃れることなど決して許されはしない。
激しく燃え上がる悔恨の炎は、この身を輪廻が続く限り焼きつけなければならない。もしくは罰し続けなければ、再びこの魂は黒く淀み、過ちを犯すに違いない。そんなことは耐えられない。
蹲る身体を強く抱き寄せて嗚咽を噛みしめ、深く、深くと、真っ逆さまに堕ちていくようだった。
ビオラの残した灯火は冷たい身体の中に燻り続けていた。
――――――
城門は煉瓦造りの古い楼門である。煉瓦は火の脚を示す灬の音に通じ、よって水災を鎮める火の意となる。櫓に吊した古い鐘は魔の侵入を知らせ、壁一面に魔除けの札を張り巡らせる。見張り番もみな魔除けの為にと顔を覆っていた。
天下を翳らせる城門の陰影は、大空を遮る雲のように大きかった。それを踏みしめて、アコラスは自然と立ち止まる。
吹き抜ける腥い匂いに顔が上げられなかった。
城壁に連なって晒されているのは、何十人もの異端の宗教者たちである。
素足から滴る血が城壁を真っ赤に染めあげて、谷から吹き上げる川風が、襤褸となった黒衣を靡かせていた。
乾いた髪がぱらぱらと乱れるその中に、深い藍色の頭髪を垣間見て、アコラスはたまらずフードを押さえつける。
「――だが、国主は喜ぶだろう」
声高にペチュンはいう。
行き交う人々の目は薄汚れた外套を見送っていく。彼らの眼差しは刺々しく敵意に満ち、もしくはその瞳の奥に恐怖を潜ませているようにも思われた。
アコラスは自らの悪臭が道理を外れた醜悪な人間として、日耀が燦然と降り注ぐがごとく天下に知れ渡っているのだと思った。一歩一歩、馬路を踏みしめる足は、いつ崩れてしまうか知れない断崖の際を歩いているような気分にさせる。
ペチュンは身体を強ばらせるアコラスに気負う必要はないと、肩を叩く。
「誰かは言うさ、お前を人殺しだと。しかし、誰かはお前の力を必要としている。その誰かとは、アリのような力のない人民ではなく、たとえば、国を守る国主。国主なく、国の未来はない。お前は偉大な協力者であり、この国を形作る偉大な創造主でもある」
「人の命を奪う人間を、誰が偉大だと思う」
花が咲き競い、春がすみの立ち上るごとく都の賑わいを遠く望み、二人の足は痰や排尿にまみれた牌楼を潜っていく。
俄に明るい通りには酒楼の旗が幾筋もはためいて客を誘い、燭の影がさす楼閣からは妓女の甘い声が袖を搦めた。吐瀉物の匂いが充満し、酒に酔った男とすれ違えば、その体臭がむっと匂うような場所である。
三羽の雀も異様な空気に萎縮して瓶の中で小さく丸まっている。
路地の奥まった隅、売春窟は岩を削り出した洞にある。
出入り口には一枚の布を垂らしただけで、簡素な門の隣に佇む男は、出入りの客から金を巻き上げた。ペチュンとつるむいけ好かない男であった。
人の足下を見て取れるだけ金をむしり取ろうというのだから、依頼の度にこの売春窟を指定され、折角苦労して集めた金も減っていく。アコラスが散々逃亡の機会を失い続けたのは、彼らのせいともいえた。それがペチュンの企みを知りつつも、為す術なく金銭を搾り取られていることに、アコラスはますます不愉快だった。
「アコラス、お前が来ると客が逃げる」
「ペチュンにいえよ」
囁く男の手に金を握らせる。
「一番奥の部屋だ。さっさといけ」
部屋は帳で仕切っただけの小さなもので、隣の音や声だけでなく、匂いまで漂ってくるような始末。
情事に耽る客を横目に通り過ぎ、目当ての垂れ幕を掲げ上げようとすると、突如と背後から押さえ込まれた。
逃げる暇もなく引き倒される。その手荒さからペチュンの仕業と思い、身が竦む。筵を敷いた粗末な床を目の前にして、脳裏に駆け抜けるその恐怖に身体が震えた。外套を掻き抱いて逃れようと伸ばした手に、象牙のような白い指が絡まった。耳元に冷たい吐息が吹きかかる。
「呪え」
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