裏通り・喫茶Si vous voulez(第1話)【創作大賞2024応募作品】
そろそろ終電が無くなるという頃、街は昼とは打って変わって人通りが少なくなっていた。空気も心なしかシンと澄んでいる。
この時間帯に開いている店は大抵が防音設備を備えたもので、にぎわっている様子はそれとなく聞こえてくるものの静けさを打ち破るほどではない。
チッカチッカと切れそうな街灯の明かりに照らされながら、楠本奈緒子(くすもと なおこ)は何も考えずに黙々と足を動かしていた。
正確に言うならば、溢れてきそうになる感情を必死に抑え込み、何も考えないようにして、歩いていた。
ヒールの音が耳につく。そろそろ踵の修理に出した方がいいかもしれない。
つらつらとどうでもいいことを考えるようにしていたが、どうしてもあの言葉が頭に浮かんできてしまう。
「もう少し、男をたてた方がいいんじゃないかな……」
ガキッドサッ。
「っつ~さいあく」
余計な言葉を思い出した途端、段差に躓き転んでしまった。
咄嗟に手をついたが、手のひらと膝がじんじんと痛む。
ロングスカートを履いているため見えていないが、膝からは血が出ていそうだ。こんな風に転ぶのはいつぶりだろうか。思ったより酔っているのかもしれない。
今日は厄日か。
「はあ……誕生日なのにな……」
29歳で当時付き合っていた彼氏と別れてからかれこれ1年。
周りがどんどん結婚していく様子に急き立てられるように、婚活の世界へと足を踏み入れた。
右も左も分からず、少しの希望を持っていた1年前と違い、最近ではもはや婚活が業務の一環のようになっている。
次々現れる男性と連絡をとっては途絶え、会っては連絡が途絶え、時に好意を持ってもらってもこちらが好意を抱けない。全く結果が出ない毎日。
やめたいけれど、やめたら出会いなんて皆無という恐怖感だけが、奈緒子を毎日婚活の世界へと急き立てる。
そうして婚活を続ける中で、傷つくことも時にはある。
それが、偶々今日だったというだけだ。
そうだけれども。どうしようもなく、むなしい。
「はあ……」とため息をつきながら、顔にかかった髪を払いのけ、よいしょっと立ち上がる。
ふと、光が目に入った。
目線を上にあげれば、ビルとビルの間、狭い道を入ったところから、光が漏れている。
あんなところにお店があるのかしら?
今日は、偶々食事のためにやってきただけのため、あまりこの辺りに詳しくない。奈緒子は、隠れ家的なお店かもしれない、という発見に、すこしわくわくした。最近、わくわくすることもほとんどなかったこと、そして体に残る酒気が、高揚感を煽る。
勢いのままにそろそろと裏道に入ってみると、自転車置き場の陰に隠れるようにして、店の入り口らしき扉があった。
『喫茶Si vous voule』
そう書かれた看板が微かに光を放っている。
「喫茶し、ぼう……?」
なんて読むのかしら。フランス語っぽいけど。そう思いながらこげ茶色の重厚感ある扉に目を移せば、『夜中だけ開店』と書かれた手書きの張り紙が貼ってある。
習字でかかれたであろうその張り紙はやけに達筆で、洋風な外観と微妙にマッチしていない。
そのミスマッチ具合が妙におかしく、くすっと笑いながら、奈緒子は引き寄せられるようにして扉の取っ手に手をかけた。
■
店内は、どこか懐かしいレトロな雰囲気で、柔らかな灯りが落ち着いた空間を作り出していた。洋風なつくりなのに、お香のような匂いがぷんっと鼻をつく。
カウンターと4つほどのテーブルが置かれた、それほど広くない店だ。外から見て窓らしきものは見当たらなかったが、やはり店内にも窓は見当たらない。
所狭しと並べられた観葉植物によって自然とテーブル席が区切られている。目隠しも兼ねているようだ。また、至る所にアンティーク調のランプや時計が置かれており、なんだか一瞬、異世界に来たような感覚に陥った。
カウンターに目を移せば、60代くらいの、白髪交じりの髪を後ろに撫でつけた初老の男性が、白いシャツに黒のパンツ黒のカフェエプロンを身に着け、ニコニコしながらこちらを見ている。その後ろで自分と同い年くらいだろうか?同じくカフェエプロンを身に着けた金髪に近いような茶髪で背の高い男性が、こちらに背を向けてがさごそと作業をしている。
「いらっしゃいませ。喫茶Si vous voulez(シ・ブ・ブレ)へようこそ」
そう声をかけてくれたのは初老の男性の方であった。涼しげな目元、落ち着いた佇まいの男性は、おそらくこの喫茶店のマスターなのだろうが、神職とでも言われた方が納得できる雰囲気だ。
「あ、あの、お店……シ・ブ・ブレって読むんですね!フランス語ですか?」
「ええ、フランス語で、『もしよければ』という意味です」
奈緒子は急に話しかけられたことに緊張を覚え、早口でマスターに問いかけたが、それに気を悪くした様子もなく、ニコニコと微笑みながら答えてくれる。
「もしよければ……へえ、そういう意味なんですね」
「ええ、お客様がもし希望してくださるならお立ち寄りください、との気持ちを込めています」
「素敵ですね」
「ありがとうございます。さ、よければこちらへおかけください」
そう言いながらマスターはカウンター席へ手をかざし、どうぞというように首をかしげる。なんだか可愛いらしいその様子に幾分緊張も緩み、奈緒子は「じゃあ……」と言いながらカウンター席へ腰を下ろした。
奈緒子が席へつくと、茶髪の男性がさっとおしぼりを出してくれた。
「あ、ありがとうございます」
と言えば、そのつり目勝ちの目尻にくしゃっと皺を寄せながらにやっと笑う。その笑顔が何かに似ているような気がしたが、「何か飲まれますか?」とマスターに聞かれ、すぐに思考が霧散した。
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