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フロムの「愛するということ」と疲労感

最近好きな人ができたので、改めてエーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読んでいる。前に読んだのは2年前に恋愛で大失敗を犯した時だった。あれから一人恋人ができて別れ、再び好きな人ができた。あの時に囚われていた暗い気持ちや様々な葛藤は、ちゃんと土となり、沈み込んだ。経験を積むと、新しい発見があったりと楽しく読んでいたのだけれど、途端にすごく疲れてしまった。少し前に宮台真司先生の著作を集中的に読んでいた時も同じ感覚に陥った。多分、この疲れはあれだ。成功者の話を聞いていたりするとエネルギーをもらえるけど直後に現れるあの疲労感。成功者は実は割とのらりくらりとやっていたりして、後から振り返ってつじつまを合わせた壮大な物語を作っているだけだよってあれだ。その壮大な物語を聞いて、無駄に比べたりなんかしちゃって気分が激しく上下しちゃう。でも、冷静になってみれば、きっとフロムもくだらない恋愛に浸って夜な夜な泣いたり、みっともなく執着したり、頭の中好きな人でいっぱいになって何にも手を付けられなくなったりしたんだろうよ。そのたびに色々考えて、あーでもないこーでもないって文章にした結果、56歳で「愛するということ」を出版したわけで。誰かが真摯に向き合って紡いだ言葉を読めるなんて本当にありがたくてロマンチックなことだけど、渦中に彷徨える子羊だからこそ手に取る「愛するということ」なんてタイトルの本に、決定版のような世界を見せられたら、そりゃあすべての言葉がこちらの柔い心臓に向かって刃を突き立ててくるように感じるわ。きっと、自分と自分の環境に合わせて、少しずつ経験しながら、少しずつ考えながら、50か60か、はたまた死ぬ時ですらよく分かんないのかもしれないなって心構えで向き合っていくしかないんだろうね。だから、また何かの経験を経て、「愛するということ」を読んで、新しく学べるところは学ばせてもらって、分かんないなってところは空白のまま、いつかわかる日に期待を込めて本を閉じるのが良いのかもしれない。


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