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凛と

「奥様。湯浴み中失礼致します」

 私が湯場のカーテン越しに声を掛けると、滴る水音と共に、いつものまさしく女神そのものの麗しい声が返ってきた。

「シュナ? 何用?」

「はい、人間の男が陳情に来ております」

「陳情? 私に? ガネーシャじゃなく?」

「それが。どうしても奥様にということです」

「そう…。わかったわ。広間で待つようにと伝えなさい」

「かしこまりました」

 真新しいタオルとお召し物が籠に入っていることを横目で確認し、私は男が待つ外門へと向かった。
 
 
 
 
 夕焼けで赤く燃える外門から広間へと案内した男は、如何にもみすぼらしい服装で貧相に痩せていた。

「間もなくお見えになるので、そこに控えておれ。決して粗相のないように」

「ははぁ」

 一刻ほどで広間に奥様、パールヴァティ様がお見えになった。威風堂々、その凛々しいお姿は威圧的ではあるものの、シヴァ様のように自分以外の存在を打ち消してしまうようなものではない。どこか慈愛に満ちている。

「私に頼みがあるというのはそなたか? 遠慮なく申してみよ」

 奥様は椅子に腰掛け足を組むと、男にお言葉を賜った。

「ははぁ。この度はお目通り有難う御座いま…」

「前口上は必要ない。さっさと要件を述べよ」

 奥様は平伏したまま語る男を見下ろし、言葉の続きを促した。

「はっ。たいへん申し上げ難いのですが…。マナの施しを頂ければと…」

「マナ? マナなら毎日支給されておるではないか」

「そうなのですが…」

 男は口籠っている。恐らく博打でスッたりでもしたのであろう。こんなくだらない用事で奥様の手を煩わせてしまった。私が先に陳情内容を聞いておくべきであった。

「マナは民に平等に支給されている。一部の者を特別扱いはできん」

「し、しかし…! このままでは私も娘も飢え死んでしまいます!!」

 男は必死に訴えかけるあまり、畏れ多くも面を上げた。

「貴様っ! 奥様の前で平伏を解くとは!」

 詰め寄る私を奥様の手が無言で制した。

「なるほど、娘。それでガネーシャではなく私なのだな」

「あなたも子を持つ身! それならばせめて…」

「見縊るなっ!」

「ひぃっ!」

「この話はこれまで。下がるがよい」

 私は男の腕を引き上げ外につまみ出した。このようなつまらない用事を取り次いでしまった。奥様に謝らねば。私はすぐさま廊下を歩く奥様の背中を追い掛けた。

「奥様。大変申し訳ありま…」

「あの男…。『私も娘も』とほざいてたな。『私』が先だ。仮に娘がおったとしてもあの男にマナを渡しては碌なことに使うまい」

「た、確かに」

「シャナ、頼みがある。あの男の後をつけよ。本当に娘が居るかも疑わしいが、もし居るのならその娘が心配だ。娘がいた場合、娘に直接マナを渡すのだ」

「かしこまりました」

 やはり慈愛に満ちておられる。
 
 
  
  
 急ぎ準備を整え、男の跡を追う。しかしその時の私はまだ思いも寄らずにいた。まさかこの使いが死人を生み出してしまう事態になることを…。
 
 
 

 夜の闇が世界を覆う中、せめて奥様の御心が傷つかないよう見えない月に祈りながら帰路を急いだ。
 
 館に戻った私はじっとりと濡れたような重たい足取りで奥様の部屋へと赴く。今晩の私の外出により1人使用人が足りなくなったせいであろう、すれ違う他の使用人達は皆慌ただしく、私の方を見向きもしない。

 奥様の部屋の前で膝を付きその背を見つめる。後ろ髪を結われた奥様はお酒を嗜みながら、窓越しの星1つない夜空を眺めておられた。私は驚かさないよう静かな声で奥様の背中に話し掛けた。

「只今戻りました」

「シャナ。遅かったではないか。あの男に娘は居たのか?」

 背を向けたまま問い掛けてくる奥様。お言葉を発する度に後ろ髪が揺れている。

「はい。コルカタの小さな家で娘と2人で暮らしておりました。娘は男が帰るなり抱きついて。どうやら娘にとってあの男は良い父親のようです」

「そう…。それで娘にマナは渡せたの?」

「男がすぐに外出したので、その隙に渡せました」

 真鍮の器を卓に置いた奥様が次の言葉を逡巡する間に、外で鳴く涼やかな虫の声が耳を掠めた。

「……。その割には遅かったではないか?」

「申し訳ありません。気になったのでその後も男を付けました。男は人気のない裏路地で妙に厚着で頭巾を被った男と会っていました。聞き耳を立てると、どうやら男は数日分のマナを頭巾の男に返さねばならないようでした」

「博打?」

「理由までは分かりませんでした。男がマナを返せないことが分かると頭巾の男は娘を売ると言い出し、それを拒む男と揉み合いになりました。そのうち頭巾の男はナイフを取り出し…」

「もう良いわ……」

「…………」

「…………。私があの男にマナを渡していればこんなことにならなかったのかしら…?」

「ご自分を責めないでください。奥様の判断は正しかった」

「…………。ごめんなさい」

「謝らないでください。奥様は…、パールヴァティ様は常に堂々とされているべきです。何が起きても動じずピンと背筋を伸ばしているべきです。その御心は慈愛に満ちていながらも凛とされている。そんなあなたにお仕えできたことが私の誇りなのです」

「シャナ……」

 私の足先から身体が細かい粒子となり空へと還り始める。頭巾の男がナイフを取り出した時、咄嗟に2人の間に入った私は胸を刺された。奥様へのご報告が心残りであったが、これで役目を終えた。

 私の身体が全て奥様の前から消えた時、闇夜に星が1つだけひっそり輝いた。それを見上げた奥様の肩は小さく震えていた。


(了)

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