見出し画像

あなたはエゴンシーレにどんな眼でみられたのか

これを読んでいる方は、エゴンシーレ展にすでに観に行かれたか、これから行きたいと思っている方が多いことだろう。

時に、観てきたという方に質問したい。

「エゴンシーレはどんな眼であなたを見つめていたか」

今、あなたは「ほおずきの実のある自画像」を思い浮かべているかもしれない。

あのねじくれた顔、見透かすようなまなざし、朱と緑の対比。
あなたは彼からどんなふうに見られたか。
あの瞳はあなたが絵のどちら側に立とうとも亡霊のように追いかけてきたのではないか?

30年前、あの絵を見たとき、私は強烈に惹きつけられながらも、彼に嘲笑されていると感じた。
「お前は何かになれるのか?いや何にもなれないだろう」と。そして「私はすでに何者かである。ご覧のとおり」と奇妙に自信を含んだ眼で見られたと思った。
正直、不快だった。

だから、なんとなく今回あの絵にまた会えるとわかった時、会いたいような怖いような心持ちがしてならなかった。私はまた見透かされてしまう。再びシーレの前にひれ伏すことになるのではないか。そんなことを考えていた。

順々に部屋を回りながら、ある部屋の人だかりをみて「あ。この先にあの絵があるのだな」と勘づいた。少々気持ちを落ち着けるために手前の「死と男」で立ち止まったのだが、それがまたよくなかった。なんとも引力のあるその絵はますます私をナーバスにさせた。
私が恐れを感じるのは手前の男だ。死神ではなくシーレのほうだ。解説文を読むと彼の瞼は閉じているとのことだが、私はどうしても眼窩のなかにこちらを見据えている眼を感じてしまうのだ。黒々とまあるい目がまぶた越しにこちらを凝視してくる。まるで「死はずっとお前を見張っているよ。知っているだろう?」とでもいうかのように。逃れられない眼。閉じていてもつぶさに私を見透かす眼。嫌だ、嫌だと思いながら、つい彼の眼と対話してしまう。彼と対峙せざるをえなくなる。

しばらくしてその不安感から逃れるように、人だかりのほうに歩み寄った。朱色が印象的な例の自画像である。

思ったよりも彼の瞳は飄々としていた。

「君はまだその場所にいるのか?」

絵は30年の時をワープしたかのように私の目の前にある。まるで時間の干渉など受けない神聖なもののように。

「すべて歪んでる。苦しいけど美しいから」

彼の眼は離れない。
今は嘲りを感じないけれど、もしかしたらそれは哀れみに変わったのかもしれなかった。

どんな芸術でもそうだが、時が経ってみて感じ方が変わることが往々にしてある。
しかし、自分の方が変わらなかったことに慄然とする瞬間というのもまたあるのだ。

シーレは早くに亡くなり、その時間を止めた。
だが彼の絵は生き続けて生者に影響を与え続けていくのだ。
芸術に力があるとしたら、そういうものなのだろうとつくづく感じさせられたのだった。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?