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ヒジャブと18禁コンテンツの演出と性犯罪者の言い訳と
性教育ってこういうことを話したらいいんじゃないの? という話
今回は、性に関する認識のいい加減さについて、話をしようと思います。
もともとは前回の意識のいい加減さのところで使う予定のものだったので、
手短に済むはずです。
○男性の性認識のいい加減さ
a.イスラム圏のヒジャブ(ヒジャーブ)やアバヤ(アバーヤ)には、性犯罪を抑止する意図がある。
b.男性向け18禁コンテンツの演出の典型例(テンプレ)には、「女性の方から
誘ってきた/求めてきた」というのがある。
c,性犯罪者の言い訳にも、「女性の方から誘ってきた/求めてきた」というのがある(らしいです)。
こういったことから、男性には、女性の服装や仕草や見た目などを自分へのセックスアピールと思い込み易いようにできているところがあるように推測されます。
また、bとcからは、性的な行為ができた、という結果から事後的に認識をつくるところがあるようにも思われます。一種の結果バイアスというやつです。(cに関しては自己防衛要素もかなり多そうですけど)
要するに、男っていうものは、誰かがきれいだったりかわいかったりするのを、自分のためだと思い込んじゃう大変残念なところがある生き物ですよ、ということです。それは成立するカップルを増やす効果をもたらしもするでしょうけれど、他方では過程を無視して結果のみを求める性犯罪を生むことにもなります。
事後的に認識がつくられるところも、「家族」という観念の形成に寄与しますが、やはり結果のみを得ようとするところを助長してしまいます。
○性教育に必要なもの
話を手短に済ますためと、サンプルの多さや分析の容易さなどから男性についての話しかできていませんが、こういった、「生物としてのヒトの性に関する認識のあり方」というものが、現代ならある程度説明可能なのではないでしょうか?
それならば、性教育というのは、そういったことと、社会として、どういう合意あるいは拒否のありかたが望ましいとされているのか、みたいな話をすればいいように思われます。
「生物としてのヒト」というある程度決まってしまっている部分に関する説明と、「現在の社会への適応」という変化がありえる部分に関する説明。はっきりと分けることが難しいところもあるかもしれませんが、こういう考え方が役に立つところもきっとあるのではないかと、個人的には思っています。
余談ですが、社会への適応に関しては、社会は移り変わっていくものですから、いろいろな形がありえるでしょう。
シンプルに、それこそヒジャブ(ヒジャーブ)やアバヤ(アバーヤ)みたいに、
視覚的にわかるような形で「今はアピールしてません」もしくは「あなたは対象ではありません」と示すのが適応的とされることもあるかもしれません。または、より機械的に、例えば男性の性犯罪者は「強制射精装置」(たぶん現代の技術力で充分作れます)を装着させて「矯正」されるから大丈夫です、というふうになることだってあるのかもしれません。何が適応的とされるのか、望ましいと考えられるのかは、その時々の社会の選択次第です。
今回は前回の関連から書いたものですので、参考文献は特にありません。
意識に関する過去記事を挙げておきます。
「かみさまって、いるの?」
「どうしてころしちゃいけないの?」
「どうしてべんきょうするの?」
「どうしてうそをついちゃいけないの?」
「考えることと感じることの限界」
次回は「未来を考えるために」の第二回、
「どうして地獄への道は善意で敷き詰められているの?」
をやる予定です。
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