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「学び直し」ってどういうこと?

0.どうして学び直すの?

 まずは、どうして学び直しやリスキリング
なんてことが言われるようになったのか、
というお話からします。

 これはいたって簡単な話で、先生に
言われたことを丸暗記するようにして学校を
卒業し、就職(就社)したら上司や先輩に
言われた通りに働けばよかった、という
世の中ではとっくになくなってしまったから
です。
 以前は、就職(就社)さえしてしまえば、
後は決まった仕事と内輪の人間関係に
集中すればいい、となっていました。
これなら就職後の学び直しは不要です。
 でも、もう会社は人が入れ替わって
いくことが、個人も職を変えることが、
ある程度は当たり前になってきています。
しかし、以前の状態が当たり前のままな
組織や個人はまだあり、組織の維持・運営に
支障がでたり、個人が再就職できなかったり
しているのです。一時話題になった、
シニアの再就職面接で「何ができますか」
という質問に対して「部長ができます」と
答えた人がいた、などというのがそれです。
 それだけ組織も個人も内輪の固定した
人間関係に依存していたということです。

 そこで、学び直し・リスキリングを、
ということになっているのです。
これまでの、学校で習ったことなんて社会に
出れば一つも使わなかったとか、役に
立たなかったとか、そういうのは何かが
おかしかったんだよね、ということです。
 ここまでの話では、比較的年配の方へ
向けた話だと思われがちですが、そうとも
限りません。なぜなら、学校の方もまだ
対応できているとは限らないからです。
今までどおりの集団生活重視だったり、
一対一対応の知識だけでそれが現実の
どのようなところに繋がっているのかを
説明できなかったり、という教育しか
受けられなかったのなら、やはり学び直しが
必要になるかもしれません。社会に出てから
でも、転機が来て、今までと全然違うことを
やる必要に迫られたりするかもしれません。

 では、具体的に何をどうすればいいの
でしょうか? それは、「これ」と固定
できるものではありません。
 例えば、何か特定の「○○」をやれば
いいとなったとして、みんなが「○○」を
やると、「○○」ができる人の需要も価値も
減ってしまいます。そうなったらすでに、
「○○」をやりさえすればいい、という
状態ではなくなってしまっています。
それに、外部の状況も時々刻々変化します
から、いつまでも「○○」が有効な状態が
続くとも限りません。そういうものです。
 なので、ここでは、少し抽象的な言い方に
なってしまいますが、2つのことについて
話をします。
「国語の学び直し」
「横並びや目的論と少し距離をとる」
の2つです。

1.国語の学び直し

 現在では、年齢・性別・学歴などを
問わず、誰もが内輪の人間関係や身内限定の
言葉遣いに頼らずに仕事の話をする・される
ことが求められているのだと思われます。
しかし、この「内輪の人間関係や身内限定の
言葉遣いに頼らず」というのは、結構
難しく、そういうものを共有していない
人たちとやりとりするためには、やはり
準備や訓練が必要です。
 そういう言語の理解や表現の幅を広くする
ために、「国語の学び直し」が必要なのでは
ないか、と思われるのです。なにしろ、
そういう意味では国語こそが重要なはず
なのに、学校では最も「なんとなく」で
点が取れてしまい、勉強されない科目と
思われるからです。

 「国語の学び直し」といっても、
別に難しい本や文学を読むのだー、なんて
話をするつもりはありません。ただ、
自分に入ってくる言葉、自分が発する言葉に
対して、ある種のセンサーを設けるように
すればいいです。「好き」でも「嫌い」でも
「こういうのに弱い(感動させられる)」でも
「苦手」でも何でも構いません。
大事なのは、そうして「自分の感覚で言葉に
触れること」であり、それを通して「自分は
この言葉にたいして○○と感じる人なのか」
というような、自分の中に基準を構築する
こと、自分と対話することなのです。
 知識や技術をものにする・身につけるのは
他でもない自分なのですから、他人の評価や
言葉ではなく、自分で自分のことを理解
したり、自分の基準で言葉に接することが
必要なのではないですか、ということです。

2.横並びや目的論と少し距離をとる

 先に断っておきますが、横並びが
それだけで悪いわけではありません。
知識や技術というのは、ある程度ヒトが
横並びであることを前提にしていないと
成り立たないものです。ただ、毎回無条件に
反射的に横並びを選択するのは、いかがな
ものでしょうか、ということです。
 年取ってくるとわかりますが、ヒトは、
考えないと、次第に考えられなくなって
いきます。よく考えれば他に選択肢が
あるのに、その「よく考える」ができなく
なり、そこに「他に選択肢がありうる」こと
自体が想像もできなくなっていきます。
先のセンサーの話とも重なりますが、
ここでも自分の基準というのは必要なものと
言えそうです。

 もう一つ、「○○のために××する」
といった目的論的行動にも要注意です。
何が問題なのかと言うと、こういった
基準での行動は、短期的な目標に対してしか
はたらいていないことが多いからです。
 科学上の発見などの、現在では偉業と
されていることも、最初からそういう
意図で、そういう結果が出て、周りからも
正当に評価された、なんてものは結構
少ないのです。本人の意図とは違う結果が
出てしまったり、当初は全く評価されな
かったり、後になって本人が思いもよらない
形で評価されるようになったり、様々です。
 無駄や間違いは、悪いこと、無い方が
良いことのように思われがちです。だけど、
多くの場合、それは結果が出てからしか
わからなかったりするものです。小さい
うちに転んだりして身のこなしを覚えて
おく方が、大きくなってからは転んでケガを
することが少なく済んだりします。だけど、
ヒトには目先の「転ぶ→泣く→面倒」が、
将来の「大人になってから大けがする」と
天秤にかかっているかどうかなんてことは、
その時にはわかりません。
 だから、いつも「○○のために××する」
(逆に言うなら「○○がなければ××
しない」)という基準でしか行動しないの
ではなく、「無駄になるかもしれないけど
やってみる」、「間違いになるかもしれない
けど、敢えてこちらを選ぶ」、という
選択肢も持てるようになっている方が
良いように思われます。

 ただし、必要に迫られている時は話が
別です。そういう時に疑問をもって
しまうのは、何とかやらずに済ませて
しまいたい逃避行動によるものが多いから
です。なので、必要に迫られている時には
逃げないでちゃんと目的のために必要と
されることをしましょう。

3.まとめ

 箇条書きでまとめますと、

・現在は、社会に出て最初にできた関係性に
埋没したまま一生を終えられるとは限らなく
なりました。

・そこで、いつでも社会関係を再構築
できるよう、学び直しやリスキリングが
必要となります。

・でも、それは、それまでの社会習慣から
すれば、自己の再構築に他なりません。

・なら、まずは関係性に関わりなく語れる
自己がないといけません。

・そのためには、自己と向き合うことと、
自己を語れることばが必要です。

・というわけで、ことば(国語)を学び直して
みたり、反射的に周りに合わせることに
対して警戒してみたりしてはいかがですか?

といったところです。

 本来、学校は今住んでいる地域と年齢を、
職場は仕事を、共有していることだけが
前提の集団のはずで、他の事が同じだろうと
違っていようと関係なく集団を構成できる
ようでないといけないはずなのです。
そして、そういう集団では、お互いに
違うことが前提なのですから、ことばによる
コミュニケーションが重要になります。
 従来の「空気」の共有を前提とした
集団は、「空気」というのはことばが
省略されたものですから、これとは逆に
なります。

 「学び直し・リスキリング」というのは、
「空気」から「ことば」への転換、という
意味を持っているのではないかと考えて、
この記事は書かれました。
 個人の勝手な分析に基づいてますので、
見当違いでしたら、すみません。

4.私の場合

 抽象的な話ばかりでしたので、少しだけ
個人的な話をします。
 私の場合は、好きな言葉を小説や
ライトノベルやゲームから抜き出して、
テキストファイルに保存しています。
きっかけは、小説の中の気に入った
エピソードがどこにあったのかわからなく
なって、何度も探し回ったことです。
テキストにしてしまえば、何か単語を
思い出すだけで検索して探し当てられます
から、そんなに探し回らないで済みます。
 それが直接何かの役に立ったわけでは
今のところありませんが、タイピングは
速くなって、それは仕事に役立っています。
もしかしたら、表現や語彙も豊富になって
いるかもしれません。願望ですけど。

 このように、最初のきっかけはマンガでも
ゲームでもライトノベルでも歌の歌詞でも
何でもいいから、周りの評価とかの「空気」
ではなく、自分の中の基準を意識して
ことばに触れてみてはいかがでしょうか、
ということです。
 
 最後に、「マンガでもゲームでもライト
ノベルでも」とは言いましたが、そちらの
方へ深くのめり込むと、学び直しや
リスキリングというお題とは違う方向へ
行くことになるかもしれませんので、
ご注意ください。

主な参考文献

日本の雇用慣行に関しては、以下を
参考にしました。

『心でっかちな日本人』(ちくま文庫)
山岸俊男著 筑摩書房 2010

科学の発見が本人の意図したものとは
限らない、ということに関しては、
以下を参考にしました。

『ダ・ヴィンチの二枚貝』(上・下)
Stephen Jay Gould著 渡辺政隆訳
早川書房 2002

『マラケシュの贋化石』(上・下)
Stephen Jay Gould著 渡辺政隆訳
早川書房 2005

『役に立たない科学が役に立つ』
Abraham Flexner, Robert Dijkgraaf著
初田哲男監訳 東京大学出版会 2020

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