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世界史-古代中国①【殷と周】

こんにちは。前回は文明の始まりについて書きました。今回は中国文明、古代中国について勉強しました。私なりにまとめていきます。

古代中国

中国文明は黄河と長江の流域で始まります。黄河文明⇒長江文明の順番みたいなんですが、諸説ありっぽいです。また、遼河文明ってのもありますが、調べた結果よく分かりませんでした。(遼河っていう河が中国東北部にあるので、そこを中心に栄えた文明。)この時期も新石器時代で話したように、農耕、牧畜が発展したようです。主に黄河流域では粟などの穀物文化が根付き、長江流域では稲作が根付いたとか‥。長江の方が南にあり、温暖なので、稲作に適していたようです。

地図上でおさえておきたいのは【中原】という場所です。これは黄河流域周辺のことで、中原=中央の地=中国という意味です。殷、周までの時代は、中原を治めることが天下一という意味になります。
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黄河の真ん中、くぼんでる箇所の周辺。

邑という都市

国が興る流れは以前書いたように、農耕、牧畜流行る⇒余剰生産ができるようになる⇒人口増加⇒さらに農業しまくる⇒食料、土地をさらに求めて近くの集落と争う⇒集落を吸収し国となる‥この流れです。この段階の国を中国では【邑】といいます。集落が都市を形成したもの…それが邑です。邑っていうのはいくつもあって、その中でも強い邑は、弱い邑を支配し大きくなります。最も有力な邑を大邑といい、それが殷になる前の【商】です。後に他の邑を従えてまとめていったのが【殷】という王朝です。

最初に誕生したのは夏という王朝だったそうですが、伝説の王朝らしく、その実態はまだ謎が多いそうです。なので、中国最古の王朝は殷であるとされています。

殷は邑制国家

上↑で書きましたが、邑とは都市です。邑の中でも有力だった大邑の商(=殷)は、自分たちを中心とした連合体を築きます。私のノートを見てください。
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汚い字ですね‥。(;^_^A 一つ一つの邑は商(=殷)の支配下ではありますが、それなりに自分たちで都市を統治できてったっぽいです。こうして一つの邑が他の邑を支配して、中原に邑制国家、殷を築いたのでした。この時点で、後に殷を倒す【周】は、この邑制国家に組み込まれた邑の一つとなっています。

殷の始祖

中国史上、殷の始祖は神的な扱いをされているそうです。ある日、女神が野外の水浴の場で、天から降りてきた鳥(ツバメ?)の卵を拾います。女神はそれを飲んだことで妊娠し、その産まれた男児が殷の始祖だったとか‥。始祖伝説として有名だそうです。なんか日本の古事記っぽいですね。(⌒∇⌒)

殷の政治

殷の政治は占い、神権政治です。生贄とかめっちゃ捧げてたそうです。このような恐怖政治は、人々からとても恐れられていました。やがてその政治、統治の仕方に反発した者達が増えていき、大きな勢力同士が手を組み、反乱を起こしていきます。

殷の終わり【紂王】

殷の最後の王は紂王(帝辛ていしん)です。私はここらへんの歴史について【封神演義】という漫画でしか知りませんでした。漫画では、紂王というと激ヤバな男でしたが、歴史上やはりイマイチな王のようで、美女に貢いで財政悪化。どんちゃん騒ぎの酒池肉林。民はとても苦しんだとか‥。
でも違う見方もあるようで、調べていたらこちらに行きつきました。
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とても面白い記事でした。勉強になりました。ありがとうございます!
まあそんなこんなで、紂王は討たれます。文王、文王の子の武王、軍師の太公望らが活躍します。これが有名な【牧野の戦い】です。周は周辺の国と共謀して殷を討ったようなので、紂王ってば、やっぱり周りから沢山反感買ってたんですかね~。
ちなみに周が殷を滅ぼしたことを殷周革命といい、前の王から新しい王に権力が移り、次の王朝が興ることを易姓革命といいます。

周の始まり~黄金時代

周という国はもともと西にあって、そこの王が武王です。(文王はその父です。)属国だった周が牧野の戦いで殷を滅ぼしたことで、周が中心となる周王朝が誕生したわけです。しかし、殷を滅ぼした武王は早くに亡くなってしまいます。それを成王⇒康王が後を継ぎ、中原を治め続けます。この二人の時代はとても安定していたようで、黄金時代とされています。なんでも40年間刑罰を用いることがなかったとか‥。この統治期間を成康の治といいます。

諸侯とは

なんか周の時代になっていきなり【諸侯】という立場?役職?が目立ってきます。これって邑の首長みたいなものなんでしょうか?

諸侯とは、上司が許した範囲内で一定の範囲の土地を治めることを許可された部下のことです。基本、世襲によるものだそうです。

‥諸侯ってのは王から認められた地位っぽいですよね。何か手柄を立てたりして王から諸侯という地位と領土をもらう‥みたいな。多分領土をもらってこそ諸侯なんでしょうね。領土がない諸侯はいなそうです。(笑)
周の政治システムは【封建制】となっているので、それがまさしくこの諸侯達のことでしょう。諸侯に周りの土地を支配させていたんですね。でも周王の権力はこれからどんどん弱まっていきます。そして逆に諸侯達が力をつけていくようです。

周の衰退

周は西周、東周と分けて語られています。この違いを簡単に説明します。

  • 西周‥力を持った諸侯の反乱や、異民族の侵入でボロボロになっていった周は衰退していきました。そのとき周の王は殺されたけれど(幽王)、周の血族は味方の諸侯に助けられ、東に逃げました。そしてそこで新たに周王朝を再建したのです。再建前の西にあった周が西周です。

  • 東周‥再建後の東にできた周を東周といいます。

幽王が殺されのは、美しい側室と、その側室との子を大事にしすぎて、正室と太子の立場を危険なものにしたからです。詳しくはこちらの記事をどうぞ。私はとても参考になりました。ありがとうございました!
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周文化の特徴

  • 完成度の高い青銅器。

  • 後に漢字の基礎となる甲骨文字(占いでよく使用)


春秋時代

周は東に王朝を再建しましたが、その頃には周の権力は弱まっていました。周の統一時代が終わって、分裂状態となった時代を春秋時代といいます。さらに、周の終わり頃(東周)から秦が統一するまでの間を春秋戦国時代というそうです。

次回は春秋戦国時代をまとめていきたいと思います。毎回言いますが、これはあくまでも私自身が納得できた内容を書いているだけなので、間違っているところもあると思います。ただ、歴史の流れはつかめるかもしれないので、誰かの参考になれば嬉しいです。

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