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授業者の思い〜追試の作法〜

 11 月 8 日(火)公開授業 振り返り

 今回は、北名古屋市の伊藤先生の道徳授業「まごころ」の修正追試を行った。
「追試」はもともとの授業の発問や指示、説明などの指導言を、そのまま同じように自身の学級で授業することである。いうならば授業の「トレース」をすることだ。授業を追試することは、追試する授業者の教育技術の幅を広げ、授業観を新たにする効果があ る。ただ、総じて「あまりうまくいかない」と授業者が感じやすいのもまた追試である。
 主な原因としては、「子どもが違うから」というものが筆頭に挙げられるが(考えてみれば当然のことだが)、僕は追試があまりうまくいかないと感じる最大の理由は、一言でいえば「授業者の思い」にある気がする。授業者のもつ「感性」がそもそも違うのだ。
 この「まごころ」は、あきらかに僕とは違う感性をもった人(伊藤先生)が作った授業である。けれども、この授業記録を初めて道徳の研究会で読ませていただいたときに、僕はこれまで ずっとお世話になってきた伊藤先生のお人柄も加わってか、目に涙が浮かんできたのを覚えてい る。一つ一つ丁寧に笹餅をつくる桑田ミサオさんの姿とともに、その姿に目をとめ、心を動かし、子どもたちへの授業にまでした伊藤先生を思って、胸の奥に込み上げるものがあった。
 僕は何度も追試の失敗を重ねてきた。今回の授業もまた、例にもれず「失敗」したうちの一つなのだと思う。けれど、随分と僕もまた追試のコツ、というより追試の「作法」のようなものを 身に付けてきた。原実践者のもった「思い」を身体いっぱいに感じ、その方がもつ「感性」を自 身の中に落とし込んで授業をする。原実践に敵うはずもないが、やっとそれで少しは近づいた授業になる。
 反対に、「思い」のない道徳授業は何にもならないということだ。すべてが歯の浮いた指導言になる。子どもの心を動かすこともないし教師としての成長も見込めるはずがない。授業は授業者の技術に左右されるものである前に、その「思い」に左右されるものだと思う。

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