管長日記「大噴火の時も坐禅」解釈20241012

昨日の日記「流れる水のように」20241011の続きである。かなりしっかりと、出来事を並べている感じがする。横田『禅の名僧に学ぶ生き方の智恵』(致知出版社)や西村『白隠入門』(法藏館)より詳しい。吉澤『白隠禅師年譜』(禅文化研究所)の引用が利いている。この本、昨日、注文してしまった。
昨日は、白隠禅師が四国まで行脚したところであった。今日は、兵庫の津、美濃を経由して、故郷(駿河)に戻る。白隠禅師はまだ23歳、1年間の出来事であった。まだまだ続く。

文章の構成
1.四十二章経の一節に感動
2.松山から兵庫への渡航
3.美濃の瑞雲寺馬翁和尚の病気、帰郷

■1.四十二章経の一節に感動
「仏さまが仰せになった、仏道を修めるものは、ちょうど木が水にあって、川の流れにそって行くようなものだ。」

老師の解釈、ありがたい:
両岸に触れず、人に取られたりせず、ばけものに遮られず、うずまきに巻き込まれてとどまったりせず、また腐ったりしなければ、私はこの木が流れて必ず海に入ることを保証する。それと同じように道を学ぶ者も、欲望の為に惑わされず、さまざまなよこしまな誘惑に乱されず、悟りを求めて精進してゆけば、この人は必ず真の道に入ることを保証する。

芳澤『白隠禅師年譜』の訳:
「これまで慧鶴は決定信をもって修行をして来たけれども、心中には「諸仏無上の妙道というものは、我れがごとき小智小徳の者の及ぶところではないだろう」という疑いがあった。そこでこのような金言に出会って、心中の細惑は底を払って絶えたのである。

つまり、修行は順調であるという自覚だろう。
「それからは、『禅関策進』を友とし、『仏祖三経』を師とし、居るときは机上に置き、出るときには携帯し、多年、この両書を離すことがなかった。」

『仏祖三経』は禅宗で重んじている三種のテキストの総称。『四十二章経』と『遺教経』は佛説(経典)、『潙山警策』は禅指導のテキストで潙山霊祐(771-853)の著。宋代の曹洞宗の禪藏、浄厳大師守遂(1072-1147)が注釈書を編纂とあり、中国宋の時代からのようだ。

『遺教経』は、仏陀の最期の教えを記した経典、涅槃部の一。詳しくは『仏垂般涅槃略説教誡経』といい、略して『仏遺教経』『遺教経』『遺教』などという。SATにある。「佛垂般涅槃略説教誡經亦名佛遺教經 後秦龜茲國三藏鳩摩羅什 奉 詔譯 釋迦牟尼佛初轉法輪。~」、とそんなに長いお経ではない。

■2.松山から兵庫への渡航
兵庫行きの船に乗るまでに、友人二人の荷物をもつはめになる。これは陰徳を積む修業だったようだ。公案工夫している。
「願わくはこのわずかな善事によって、速やかに見性の素懐が遂げられますように」と心に念じながら、杖をたてて一歩一歩、長い道中を「無字」の公案を拈提しながら進んだのでした。

この逸話も知っていたのだが、いつどこで知ったのか思い出せない。この日記はまとめて書いてあるので、良いリファレンスになるだろう。

■3.美濃の瑞雲寺馬翁和尚の病気、帰郷
馬翁和尚の病気を看病して、その後に帰郷する。これが宝永四年、西暦一七〇七年。この年の十二月に宝永の大噴火があった。

「この時、松蔭寺のあたりも大地が大揺れし、建物は音をたてて震動した。兄弟子と手伝い方の童僕たちは、みな走って、一緒に郊外に逃げてうずくまっていた。しかし、慧鶴だけは、ひとり本堂で兀然と坐禅をした。そして心に誓った、
「もし自分に見性することのできる運勢があるならば、諸聖が必ずやこの災害から守ってくれるであろう。もしさもなくば、壊れる家の下敷きになって死のうとままよ」と。
そこに生家の俗兄(古関)がやって来て、「危険が目の前にあるというのに、おまえは何で悠々とこんなことをしておるのか」と言う。
慧鶴は「わが命は天に預けたから畏れることはない」と答えた。
俗兄は再三にわたって説得したが、慧鶴は堅く誓って起たず、なおも誓願をたてて、この嶮難のさなかで工夫を試みた。やがて鳴動がおさまった。慧鶴は端然として、一つも損傷するところはなかった。」

修行に没頭していて気が付かない、というのではなく、仏道精進の功徳を信じ込んでいる感じだ。確かにコントロール出来ることではないし、動揺してうろたえるよりも、安全かもしれない。23歳で禅僧らしくなってきている。

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