管長日記「開山さまの最期」解釈20241003

10月3日は円覚寺の開山忌、仏光国師のご命日法要。昨日の日記からの続きといえる。
仏光国師と言えば、偈がとても有名であるが、今日はお亡くなりになるときの樣子が採り上げられる。仏光国師語録を直接に参照しており、是非目を通す内容だろう。偈文だけ知っているより、はるかによいと思う。

また、法要の儀式の説明も述べられる。昨日は仏殿での儀式だったが、今日は舍利殿での儀式である。昨日の日記でも思ったが、法要の式次第はあまり知られていないので、これもまた貴重だろう。実施の中心にいる管長が話しているのだから、本当にそのようにしているのだと思う。

構成
1.10月3日開山忌の式
2.仏光国師遷化の記録、朝比奈宗源老師『しっかりやれよ』引用と解説+南嶺老師の解説

■1.式次第について
午前十時から舎利殿で読経。
小一時間ほどお経をあげて、舎利殿のある正続院から、行列を組んで佛殿まで参る。
更に佛殿で読経。それからお供え。
導師(老師)が、まずお香を献じて三拝。
そして開山さまにお昼のご飯と白湯を献じて三拝。
それからお茶を献じて三拝。
合計九回礼拝しながらお供えをする。
このとき、五侍者といって、管長に侍者が五人もつきます。
一、焼香侍者。山門の行礼において住持の焼香を補佐する役。
二、書状侍者。住持の往復の書簡を司る役。
三、請客侍者。住持の賓客の応接をする役。
四、衣鉢侍者。住持の衣鉢資具を司る役。
五、湯薬侍者。住持の飲食湯薬を司る役。
現今の臨済宗では、侍香・侍状・侍客・侍衣・侍薬と呼ぶ。
たとえばお茶を献じる時には、お茶をお香に熏じで、五人の侍者が受け渡し、侍衣が受け取って、最後に侍香が開山さまにお供えする。

■2.について
原文は語録にある。SATに語録がある。CBETAにはなかった。

佛光國師語録 (No. 2549 子元祖元語 子元祖元編 ) in Vol. 80
佛光國師語錄卷第九
實弘安五年壬午十二月八日也。甲申
四月四日。~
八月二十六日。師謂余曰。吾有一事辦在九月。余曰是何事耶。
師曰。幻盡道資二十八日爲衆入室罷示有微恙。咲曰逝山時至也。
九月初一日。師兩班會茶。亦赴參請如常。
初二日師叙出世始末之意。語皆愴然。當夜於丈室中。或行或坐。
以手敲床。吟詠至曉。人不知何意。
初三日齋前書報謝之偈。先曉諸人云。

一切行無常。生者皆有苦。五陰空無相無有我我所。

師懇激勵衆以爲常。略不相做。齋後語徒弟云。吾臨此土受苦八年矣。
且喜今夜快怡去也。小師慧曇。畫師頂相請賛。卽爲染筆賛畢。自寫遺書。
別檀那之外護。叮嚀祖宗切矣。又親札貽於諸方。付囑殆盡。宴息之間。
師忽云壁外何聲也。余曰衆保慧命。誦經之聲。師曰吾住世緣盡。
今夜撒手便行決矣。但勉各以宏道。是吾意也。凡諸方問安應接不厭。
酉時再示衆云。

諸佛凡夫同是幻。若求實相眼中埃。老僧舍利包天地。莫向空山。撥冷灰。

時遷亥初。更衣端坐。索筆書偈云。

來亦不前。去亦不後。百億毛頭師子現。百億毛頭師子吼。

置筆泊然而逝。年六十有一。臘四十有九。龕留三日。

8月の末には、国師は自分の樣子が分かっていたようだ。あとのところは朝比奈宗源老師の引用の通りだろう。朝比奈宗源老師は丁寧に訳して、解説していることが分かる。

「この円覚寺の開山さんも若いときから病身の方ですが、晩年病にお苦しみになった時、わしは日本に来て八年間苦しんだ、もうすぐ楽になるという意味の事を亡くなる直前におっしゃっております。
お寺では毎月一日に茶礼といってみんなでお茶を飲む儀式があるが、開山さんはいつもの通りそれに出られ、二日(弘安九年九月三日の晩にお亡くなりになりましたから、亡くなる前日)には、みんなを集めて、自分の出家した時のことや、日本へ来たときのことなどを話された。
そうしてその晩、居間で、あるいは行きあるいは坐すというんですから、歩いたり坐ったりして、中国風にベッドのようなものを作って上げたのかもしれませんが、詩を詠じたりして夜通しおやすみにならなかった。
みんなにはどういうお気持か分からなかった。

三日のお昼前になって、報謝の詩を作って一同に示された。

一切行無常
五陰空無相
生者皆有苦
無有我我所

一切の行は無常なり、生者は皆苦あり、五陰(われわれの意志や感情など全部) 空にして相無し(実際はない)我我所あることなし(われもなければわれの所有ということもない)一切が空だ。

そしてさっき言いましたように、今夜快治し去らん、もうじき楽になるだろうとまるで死ぬことを楽しみのように物語りをして居られるうちに壁の向で読経の声がした。
「あの声はなんだ?」
「あなたの延命を祈っているお経です」
「わしはこの世に住むべき縁はつきた、今夜は必ず逝く」

おかくれになる日の午後の偈に、

諸佛凡夫同是幻
若求実相眼中埃
老僧舎利包天地
莫向空山撥冷灰

諸佛凡夫同じくこれ幻(佛も凡夫も同じようにまぼろしだ)、
もし実相を求めば眼中の埃(そこに永遠の何かこちんとしたものがあると考えたならば、眼の中にごみが入ったようなもんで迷いだぞ)、
老僧が舎利は天地を包む(わしの骨は宇宙をつつんでいる。)、
空山に向って冷灰をあばくこと莫れ(焼場の冷えた灰をかき廻してお骨を探したりしてくれるな)という詩があるんです。

これは、私(朝比奈宗源老師)がいつも申上げていますところ、即ち「佛心は宇宙を包んでいる」ということですよ。私どもの根本の佛心は、生き通しであり、罪やけがれにどうのというようなものでなく、そして宇宙一杯なんです。

この偈を示されたのが、酉時というのですから、夕刻であります。
更に亥の初ですから、九時頃に、衣をかえて端坐し。筆をとって偈を書かれました。

來亦不前。
去亦不後。
百億毛頭師子現。
百億毛頭師子吼。

そして筆を置いて泊然として逝くと語録には書かれています。
泊然とは「心が静かで欲のないさま」を言います。

龕をとどめること三日、慈容生けるが如しとありますので、棺を三日とどめておいたようですが、その慈悲深いお姿は、まるで生きておれるかのようであったというのです。

朝比奈老師の説かれた「わしは日本に来て八年間苦しんだ、もうすぐ楽になる」というのは、原文では「吾、此の土に臨んで受苦八年、且喜すらくは今夜快怡し去らん」となっています。(吾臨此土受苦八年矣。且喜今夜快怡去也。)
「今夜快怡し去らん」という言葉は胸打つものがあります。
快は「こころよい。しこりがとれて気持ちよい。さっぱりする」ことです。
怡は「よろこぶ。心が穏やかになごむ。心を和らげる」ことです。
仏心の世界に帰る心地よさをいうのはもちろんでしょうが、仏光国師は晩年に言葉も通じない異国に来て八年ご苦労されたことを「受苦八年」と表現されているように、その苦労から解放されるという安らかさもあるのかと察します。

実に荘厳なる様子がうかがわれます。厳粛な最期であり、安らかな最期でもありました。

■「亡くなりになったのは九月三日なのですが、円覚寺では一月遅れの十月三日に法要を営んでいます。」
遷化法要の儀式を月遅れとするのは、浄土真宗でもそうだったように思う。それにお盆も7月か8月かというのもある。旧暦、新暦の違いだと思った。こだわるところではないのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?