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【エッセイ】私ファースト

 年が明けた。今年の冬はすこぶる寒い。いつ以来だろう、こんなに寒い冬を過ごすのは。例年暖冬、暖冬で、つい温暖化の急激な進行を予感して怖くなった。ところが今年は寒さに震え、新型コロナウイルスの雲が世を覆い、見上げる空は青く澄んでいるのに気持ちはいっそう滅入るばかりだ。
 炬燵にでも入ってゆっくり考える時間が持てれば、ぞっとするこの閉塞感は寒さやウイルスの外的因数が原因でないとすぐにも気づく。この国を覆う暗い閉塞感の芽は数十年ずっと社会の間に潜んで、この数年でいっきに芽吹き出したように思われる。
 
  よもの海みなはらからと思ふ世に
                など波風のたちさわぐらむ
 
 唐突だが、明治帝の御製である。明治は日清、日露と大きな戦争を重ねた時代であった。だが抱く明治のイメージは、青く大きな空に向かってみんなで駆け上がっていくように明るい。おそらくこれは多くの邦友に共有されている印象と捉えて大差あるまい。実はここにこそ、現代を覆い尽くす閉塞感を読み解くヒントがあるように思われる。
 みんなで駆け上がっていくというイメージ。明治という時代は、あるいは戦後のどこかの時点までといってもよいかもしれないが、時の天皇が「よもの海みなはらからと思ふ世に」と詠まれる時代であった。現代は国そのものを体現する皇族が邦を捨てるようにして、はらからを見限るようにして海外に逃げる時代である。それも私的事情をまっとうするために。
 もちろん皇族といえども個人の幸福を追求し、自らの自由において進路の選択を行うことは憲法を持ち出すまでもなく当然の理である。だから、ここでふれている事は、個人が選んだ選択の内容そのものではない。選択を実現するために取った行動様式についてである。当然ながら、皇族個人の人格を貶めるつもりなど毛頭ない。
 問題は時代にある。皇族も時代の子だ。時の趨勢に超然として存立することはできない。むしろ皇族ゆえに時代をよくも体現する。時代とは、その地に生きる人民が持つ意識の言い換えのことである。
    共生感なき波のたちさわぎが、この国の今を覆い尽くしている。
 昭和のある時まで、この国の民の間には共生きの感覚が確かに存在した。平成の時代は、そうした共生きの感覚が人々の間から蒸発するごとく失われてゆく時であった。令和の世になって、見事に孤立した個人だけが一億悄然と立ち現れている。互いに互いの心の内に無関心なはらからたちが跋扈する世。これがこの国を覆う黒雲のどうやら正体のようだ。
   だから皇族も夢想した。向うの大地に行けば、自分を迎えてくれる空はもっと晴れやかに晴れ渡っているにちがいないと。国を体現する者に私ファーストの行動に走らせる風。そんな風邪が、今の世に蔓延するほんとうの恐怖であろう。
 
 
 

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