ダメダメ人間4号 〜虞美人草12章〜

細かいことはすっ飛ばして、この章のざっくりとしてあらすじを話す。

最近藤尾に会いに行ってなかった小野と、甲野さんが会う。その時に甲野さんは、小野に、甲野家と宗近家で例の東京勧業博覧会に行ったことを告げた。でも、君たちがいたことを我々は知っている、しかも見ていた、ということは言わない。

読者には、この甲野さんの振る舞いが意地悪いようにみえる。でも劇中では、小野が藤尾に懸想して、乗り換えようとしていることを甲野さんは知らない。

その情報を得て、小野がアレコレと悩むところが前半。なんで悩むのかというと、小夜子と一緒にいるところを見られたのかどうか、見られたならその関係を言わないとやましさを抱いていることがバレるし、見られてないのならわざわざ言うと藪蛇になってしまう。このよくある浮気者のジレンマ。

後半は小野が小夜子といたことについてプライドが傷つけられた藤尾の内面。どうにかして小野に自発的に謝罪させなきゃ気が済まない。それをさせるためにどうするかをアレコレ考える場面。

そこに小野登場。藤尾は、徐々に詰めていく。あっ、小野が詰められてる!とわかる。そして、小野はゲロしてしまい、藤尾は宗近のことを「一(はじめ)さん」と呼ぶことで、競争者の存在を明かし、小野の心を揺さぶる。

ここも痛いなー、と思う。

なぜかって、小野は結婚を前提に交際しようとしていた相手に、振り切れない昔の女と一緒にいるところを見られてるから。

読み手は、藤尾が漱石の書き方によって嫌な女ということがわかっているから、あんまり動揺しないけど、藤尾が普通の人だったら、小野の方が悪いやつだよね。ケリをつけてからそっちに行けよってなもんで。

小野って、厨川白村がモデルと言われてるけど、漱石自身の煮え切らなさも大いに反映しているような気もする。結構、ダメなやつ、というか、原秀則先生の『冬物語』の主人公のアイツ、名前なんだっけ、あ、そうそう森川光並みのダメダメなやつだよね。

そんな森川光に影響されて、あたら若い時期を無駄に過ごした俺も、超ダメダメなやつなんだけど(笑)。原先生!あなたのあの漫画に人生を一瞬狂わされた男が今、もう50歳にならんとしてますよ!

小野、森川光、そして俺。ダメダメ1号、2号、3号ですね。今をときめく大泉洋を見出した鈴井さんにも『ダメダメ人間』みたいな本があって俺、新刊で買って持ってる、それ含めたら、俺は4号かも。

筋肉少女隊の、ダーメダーメダメダメ人間!ダーメ人間!という歌が鳴り響くね。

『こころ』と同じで、長編小説の構造ドラマトゥルギーには、三角関係が必ず必要だということを漱石が読者に教えるようにわかりやすく書いている。

でも、三人称人物の内面の記述にはいささか、それに相応しい文章が現れていなくて。心理学主義があんまり納得いってなかったのかもしれないけど、意識内容と言語列の相同性(理論的な)までは至ってないことがわかる部分だよね。

告白や書簡体によって、個人の内面を言語的に記述することはできても(自然主義的な内面告白)、今ここにいるキャラクターが自身の内面をモニタリングしながらそれを言語に置き換えていくというのはある意味では《意識の流れ》以降の小説技法のような気がするので(あいまい)、漱石がそれをしなかったといって瑕瑾にはならないと思うけど、美文体ながら、ギリ内面記述のように見えなくもない、というのは、やっぱり漱石の小説探究はすごいっちゃすごいよね、と思わせる部分だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?