孝に励まされる ~齋藤孝の研究 8~

「研究 7」では、孝に対して苦言8割、同意2割の感じで、書いてしまった。齋藤孝先生、すみません。それはそれとして、『教育力』(岩波新書 2007)の方は、教育する人にむけて(教師志望だけではない)の身体的コミュニケーション技法がふんだんにちりばめてあって、有益な本だと思います。

教育の一番の基本は、学ぶ意欲をかき立てることだ。そのためには、教える者自身が、あこがれを強く持つ必要がある。「なんて素晴らしいんだ」という気持ちが、相手にも伝わる。教える者がすでにあこがれの気持ちを失っている場合には、人はついてこない。

孝の本源的なテーゼはこれです。理解できますが、一言いっておけば、人がついてこないのは、教える者のあこがれが足りないからだ、という逆論理も成り立ってしまうために、提唱者である孝自身は、あこがれの充満を達成できているけど、達成できてない人は、あこがれが足りないわけだからもっとがんばりなさい、という教義的論理構成になっていることが気になります。

この辺は孝のマルクス主義の受容の残滓が見えるところで、革命が成功しないのはプロレタリア精神が足りないからだ、もっとがんばりなさい、という理屈を教育力に応用したもののようにみえる。

経験知を重ねる良さを残したまま、新鮮さを失わない。これは、もはや一つの技である。「先生も自分たちと一緒に変化してくれるのだ」という意識が学ぶ側に生まれると、場を一緒に盛り上げる機運が高まる。

こういう指摘はいい。新鮮さは学びの継続である。教師はもっとも教わることが上手な人の第一人者だ、という内田樹のテーゼとも響き合う。教える人は、常に学んでいる必要があり、その学びの姿勢が新鮮さを生み出す。

学びの内容は読書によってもたらされる。読書を続けて学び続けよう。孝の主張は、ここにつきる。

教育の本来の形は、教師が店を開き、そこに生徒側が身銭を切って教えを受ける、という関係だ。自分の授業はどれだけの満足を生徒たちに与えることができているのか、という切実な問いを、塾の教師は突きつけられている。その厳しい問いかけは、教育者にとって本質的な問いである。世の中には、塾や予備校に対して、二次的なもの、営利主義的なもの、というイメージが流布しているが、教育本来の形は学校よりもむしろ塾の方にあると、私は考えている。

教育サービス論になりかかるテーゼだけれども、私塾的な関係性こそが、教育の本質、という主張も、逆説的でハッとする。教える側も、生徒を選ぶぞ、という緊張感が、教授内容の価値を高める、という効果はあると思う。

でも、孝の本でやっぱり面白いなあと思うのは、「すごいよ!シート」だったり、社内放流してのポイントまとめさせ活動だったり、実際にやらせることの具体性があることだ。教材的なもの、ワークショップ的なものを、出してくる多くの引き出しが孝にはある。

孝の『段取り力』(ちくま文庫 2006/単行本 2003)という本は、昔買ったまま、どこかにやってしまって探さなければならないのだけれども、この『教育力』の中でも変奏されている。

あとは細かい作業をやるだけという安心感をもって仕事をすると、ストレスがとても少ない。先が見えていることがストレスを減らすのだ。いったいこの先どうなるかわからないという不安感が、いちばん人を消耗させる。

「自分は今何のためにこれをやっているのかわからない」という迷子状態に陥らないようにするのが、先生の役割だ。そういう意味では全体の構図を捉える力に優れている、すなわち段取り力というものが全体のなかで常に見えている人間、そういう人間が指導を行い、段取りの見抜き方、吸収の仕方、あるいは自分で段取りを立てていくやり方自体を教えていく、ということが大切なのだ。

コボちゃん200字作文とか、ドラえもん教材とか、なるほど、そういう教材の発想はやはり、そこが孝だなと思う。孝に、文明評論をやらせてはいけない。

ただ、孝は、ブラック企業ではある。

教師にとって、学ぶことは才能ではなくて、これは職業としての義務なのだ。あちこちの研究会に行って、夜遅くなっても、それを労働と思わないのが基本だろう。「日曜までつぶされちゃった、研究会にいかされてさ」などという人は、その仕事をやめたほうがいい。教師をやるなということだ。

これは筆が滑りましたな。言わんとしていることはわからないでもないけど、自発的じゃないと、これは厳しいよね。どうでもいい研修もあるしさ。でも、そういうと「どうでもいいと思っているから、どうでもよくなるんだ、心持ちが悪い」って言われるよね。いや、客観的に、どうでもいい、《やったふり研修や研究会》ってあると思うよ。こんなことをやりたくない、と思うのも、アメリカ化の影響だと言えるのだろうか。私はそうは思わない。

アレコレ、ほめあげるつもりがアラさがしみたいになっちゃってるけど、一つ一つの指摘はやはり教育方法論の研究を長年してきただけあって、なるほどと思う部分が多い。岩波新書だから、ちょっと、よそゆきの顔をしているのかもしれないけれど、その辺が距離感としてはちょうどいい。

授業は祝祭、生活は全部勉強、常にコミュニケーション…あふれでる孝のバイタリティには恐れ入ってしまうのだけれども、なんというか不遇の期間が長かったのだろうなあ、と、ちょっと思う。

本の後半は、結構、おなか一杯で、も、もういいよ…という声が出た。

孝、生き生きとした教師の身体をむしばむ、事務作業とペアレンツ問題に何か言ってやってくれよ。



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