孝に感想文を学ぶ 〜齋藤孝の研究10〜

夏休み直前、いつも読書感想文メソッドについての本を読んでしまう。

どうやったら良い読書感想文が書けるのか。そのテーマでたくさん本が出ていることに驚く。正直なところ、良い読書感想文であろうとなかろうと、宿題なんか出せばよいのであって、良くなくても字数を書ききれば逃げ切ることはできるからだ。

じゃあなんでお前は読書感想文の本を読むのか、というと、このたわいもないテーマに対して、これほどまでにビジネスが行われている事実に、人間社会の本質があるのではないかと思っているからである。無駄なことに時間を使うという人間社会の本質を、もっと知りたいのである。

偽悪的な言葉を使ってしまった。

実はそこまで斜に構えているわけではない。私自身は読書感想文が好きである。なぜなら、大いなる無駄に取り組む人間の業が美しいからである。

普段、リアルでお会いする人々は、そんなに簡単に本質を出さない。会話も、ボロが出ないように、テンプレートで固められている。なんならコンビニで売買の際に行われる会話とほぼ同じような味気なさで進んでいく。

ところが、日記や読書感想文で表される文章は、その人の人には見せてない側面を顕にしてしまう。だから文章を人に見せるのが恥ずかしいと最初は思うわけだろう。おそらく読書感想文を書きたくないと思う人は、言葉にはしないけれども、こうした恥ずかしさをできるだけ回避したいと思っているはずであろう。

どの本を選んだのか、を、開示するのは恥ずかしい。
この本をどこまで読みえているのか、を、開示するのは恥ずかしい。
この本について書く文章力のレベルが表示されるのが恥ずかしい。
何について、どう反応したかを書くのは恥ずかしい。

私もフリースタイルで文章を書くことの恥ずかしさについては重々承知している。だから匿名なのだ。でも、それは潔さがない、とも思っている。でも、やっぱり自分は水着を着ないとプールに入れない。実名で文筆されている方のように、真っ裸で温泉に浸かることができるほど、自信がないということだろう。

この文章表現につきまとう羞恥心を、いったいどうすればいいのか、案外そこは読書感想文メソッドには書いてない。上級者向けの悩みなのだろうか。いったい、自分が感想文上級者なのかどうか、知らない。

というわけで、孝の読書感想文メソッドを読むことにした。おそらく小中学生向けの本なのだろう。ブックオフで110円。愛らしい本である。

読書感想文を書くにあたって、抵抗があると孝は言う。恥ずかしさのことかと思ったら、そういうことじゃないみたいだ。

①面倒くさい。
②本を読みたくない。
③何を書いたらいいかわからない。

3つあるっぽい。

結局①は、②、③の言い換えなので、読みたくない派と読めるけど書けない派が大きな流派としてあるという。

どっち派だろうか。noter諸氏は、どちらでもないだろう。私はどっちかといえば、読みたくない派に属する。

小学校四年生のとき、書いてないのに書いたと言い、じゃあみんなの前で読んでみろと言われて、白紙の原稿用紙をしどろもどろで読んだ。というか、捻り出した。恥ずかし目を受けたのだと思うが、まあ、どこ吹く風だった。読書感想文なんて意味ないよ、そう思っていた。

正直、私の読書感想文は、ただの身辺雑記に過ぎない。実は、今も昔も、良い読書感想文を知らない。だから、まともに読書感想文を書いた経験がない。うちの妻は逆に郵政大臣の賞を取ったことがあるという。

なんか書くのが面倒になった。

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