孝に叱られる 〜齋藤孝の研究 7〜

帰り道の電車で孝の本でも読もうかなあと二、三冊見繕って帰宅の途についたのだけれども、孝の本すら読めぬくらいに疲れて、ただただボーッと車内で天井を見上げていた。アッ、また孝に当て擦り言っちゃった!というのは、冗談です。

持って帰ったのが、『教育力』(岩波新書)、『身体感覚を取り戻す』(NHK出版)、『なぜ日本人は学ばなくなったのか』(講談社現代新書)の三冊で、最初が比較的真面目に書いている本、二冊目は初期のものでそれなりに手応えがあり、三冊目は大人に対するお叱りと失望の言の本であったからだ。

どれも疲れてる時に読む本じゃない。

もっと清涼飲料水みたいな本、くれよ。

『日本人はなぜ学ばなくなったのか』、2008年の本である。優しいモードの孝、学者モードの孝、お叱りモードの孝、いろんな孝の顔があるが、この本は完全に阿修羅の顔に切り替わっている。

ゲームやバラエティ番組が「生きる力」を与えてくれるわけではない。生命力は、努力して磨き、身につけた技によって、現実を生き抜く力となる。

いやいや、そうだね、わかるよ。でもなんだろうね、半分、そう言ってハッパかけても「それってあなたのパワハラですよね」って言われちゃう現状。「だったら、辞めまーす」って言われちゃう現状。林先生!なんとか言ってくださいよ!Eテレはバラエティじゃないのかな?、という愚問は留めておいて、確かに《俺らの頃のようには学ばなくなった》のかもしれない、とは思う。

私もそういう意味では『分数ができない大学生』が刊行された頃の大学生である。世代を擁護するわけじゃないけれども、確かに急に分数の計算問題やれって言われたら二桁だと間違えちゃったかも。

これって東大生だっけ?東大生でも、急に分数来たので、になっちゃうかもね。

QBK、へなぎサイクロン。東大生は、立花隆だったか。どうでもいいや。

というわけで、定期的にヒートアップする孝の勇姿キレマッチョを見たい人は、『日本人はなぜ学ばなくなったのか』(講談社現代新書 2008)を読んで、孝に叱られてみよう。

僕はまだタカシを知らない、と思わされることになった『日本人はなぜ学ばなくなったのか』という著書は、結構悩ましい本だ。

「悩ましい」というのは、この本で言われている主張は多少なりともわかったり同意したりできるものであるが、その主張の背景をなす現状分析について、いささかの物足りなさウケウリ感を感じるからだ。

もちろん、2008年ごろの日本の教育状況、教育に関わる保護者、親、子どもといった利害関係者の実態を調べるのがこの書籍の本意ではないのはわかる。

けれども、日本人の《「バカ化」の進行の究極的な要因は「リスペクトの精神が失われたこと」だ》とするテーゼは、ノレる人とノレない人がいると思う。

こういうのはみんなどう読んでいるのだろう。

極論・暴論を述べることでハッと自分の身になって考えてもらうことを、孝が企図しているなら、それは《怒っている人の姿》をエンタメ的に消費させるだけに終わってしまうのではないかと危惧した。

もう少し理屈を補足すると、「バカ化」勉強しなくなった、勉強をバカにするようになったのは、先人を敬いリスペクト先人のようになりたいと欲望する力孝の本源的テーゼである・なろうとする人の欲望を模倣する欲望が、失われたことにあるということになる。

ただ、このテーゼ、孝が初期作品から言い続けている、学びの本源的セオリー孝の理想的状態が機能していない理由を、詮索しているだけではないのか。孝のセオリー自体が、セオリーとして不完全・未完成であることを検討しないのか。

第一章では、若者達の現状が語られる。「やさしさ思考」の隆盛を元に、「やさしさ」の流行は傷つきやすさの裏返しだとして、それらが競争力を奪い(=タフであることが人の徳目ではなくなるから)、その結果人と議論する(=交わる)こともなくなり、全体的に学習へのリスペクトと意欲の低下が現象している、と孝は言っている。

第二章では、そうした「やさしさ思考」やフラット化の背景にあるのは戦後の「アメリカ化」にあると述べられる。「アメリカ化」にはもう戦後のあらゆる現象が入ってきちゃうわけで、ポップミュージック、カウンターカルチャー、ヒップホップ、見た目重視、金銭至上主義、遊び重視といったものまで「アメリカ化」に入れている。

第三章では、《明治の青年は良かったけど、それ以降はね…?論》が語られる。孝の悲憤慷慨。気になるのは、明治の青年の素読習慣が教養の身体化で素晴らしいと評価し、それに比べて大正はね…みたいな風だけど、別のところでは大正教養主義が失われた現代を嘆いていて、江戸末生れの素読習慣、大正教養主義、いいとこ取りで比較することの問題が、ちょっと出てきているんじゃないかと思う。

第四章では、教養主義的生き方を選択するに至った己の半生が振り返られる。ここは面白い。「アメリカ化」する若者の中で孤立、アイデンティティを得るための苦闘、マルクス主義の重しと失望、80年代の恋愛至上主義。

時代の空気に必死に抵抗し続けてきた私でさえ、こういう空気とは無縁でいられませんでした。正直に告白すれば、豪華なクリスマスデートのために貴重な本を売ってまでお金をつくったこともあります。

これ読者の共感を拾うための誇張じゃないかと思う。貴重な本は売らないよ。売らないし、売ってもさすがにそんなにお金は作れなくない?孝、1960年生まれだろ?一浪したって、大学生のころは1979~1982じゃないか?ここはまだバブルではないぞ。司法試験受験、一年あるから大学院に入るのは1984年か?そこから修士1984~1985、博士1986~1988で、それぞれ、2年3年追加しても、1993までか。豪華なクリスマスデートの圧力、まあ、いいか。

いずれにしても、質屋に預けて、後で取り戻すくらいじゃないか。孝、これは誇張いいすぎだぞ。本当のことだったら、愛らしいけど、俺はちょっと信じらんないなあ。

第五章では、解決策として大人が読書しよう!という方針が示される。大人が子どもの孝的に理想のロールモデルになることで、子ども達の読書意欲と、未来への希望を生み出そうという趣旨が語られる。

孝、問題意識も危機感もわかるけど、ちょっと論が粗雑だぞ。

どう粗雑か、というと、

AとくらべてBは堕落している、と前段で述べているのに、BとくらべてCは堕落している、と後段で述べる中で、Aと比べたときに堕落したとされているBが、Cと比べることでポジティブな意味を与えられてしまっている、という恣意性があること、だ。

例えば、

第二章 学びを奪った「アメリカ化」の中で

しかしロックミュージックによって得られる快楽には、努力の必要がない。脳の興奮状態を、地道な努力とは無関係に得ることができてしまう。そのことが、本を読んで自己形成していくという活動を困難にしている、というわけです。

ロックミュージックを聴くという行為は受動的で、その受動性が能動的な活動であったかつての読書習慣を弱めた、という内容が書かれている。

でも、第五章 「思想の背骨」再構築に向けての中で、

日本がアメリカ化されはじめた一九六〇~七〇年代、ロックやポップスで盛り上がった若者たちは、「自分たちは時代に大きな力を持つ一世代である」「自分たちが世の中を変えていくのだ」という一体感を持っていた。大きなアメリカ文化の波が、若者が社会においてもっともパワフルであるような時代をつくりました。その時流に乗り、ちょうど流れるプールに身を任せるように楽しんだ若者が、当時はいたはずなのです。
しかし今、そういう感触を持っている若者は少ないでしょう…(後略)

理想状態からの頽落、これを打破して理想状態に回帰しよう、とする論理は、疎外論的構制、といったりする。人間的な本質から、現代人はどんどん疎外されているというわけだ。だから、理想状態に戻るために何をすればいいか、というと、身体論であり読書論である、というわけ。

ここには、80年代の状況から疎外された結果、脱社会的な運動を行った宗教運動と共鳴する場所にいた人物が、解決策としてあくまで世俗的な教養主義的手段を提唱したことで、かろうじて脱社会化せぬまま、著名人化するという社会構造がみられる。教祖ではなく、教師にとどまった孝。

孝ほど、時代精神を濃厚に背負った人物もまたいないし、本書は、1960年前後生れのインテリ青年上祐さんとかさの危機とその回避を明確に示している素晴らしいドキュメント歴史を背負った証言である。


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