エッセイ集の感想が書けない

休日出勤の疲れがたまっていると、思うように文章が出てこない。割といつも、読んで書く、のではなく、書くために読む、書きながら読むになってしまっているので、今日はこれで書くぞー、と決めて、書きながら読み、内容を理解して、全体のつじつまを整えている始末。本末転倒とはこのことを言う。

今回、これで書いてみようかな、と思ったのが、夏目房之介・編『トイレの穴』(福武書店 1994)。このエッセイ集の文庫、私のは3刷で、初版は1994年の刊行だった。3刷は1995年で、ちょうどその間、1995年4月1日に福武書店からベネッセコーポレーションに社名が変わる。そのPRが、文庫に記載されている。そういう意味で多少貴重な本かもしれない。

福武文庫は1985年に始まり、2000前後に終了したとされている。その中で、夏目房之介・編『トイレの穴』は、糞尿、便器、トイレ関係の文人エッセイを集めたものとして出色の出来である。

タイトルからして、何の本かわからないし、夏目房之介っていったらマンガ評論の人だよね、ということで、私もおそらく買ったときには、マンガ評論か何かのつもりで買ったんじゃないかと思う。ところが、読んでみたら、便座比較文化論あり、東海林さだおの便意感の多様性問題あり、山田風太郎が漏らした話あり、稲垣足穂のフェティシズム論あり、不思議なエッセイ集だった。

じゃあ、これで、読書感想!と意気込んではみたけれど、言葉が向こうからやってこない。来るときはすぐに来るのだ。「50男は成瀬を買えない」も「50男が成瀬を買った」も、最近、転載していただいて、私にしては多少多めのスキをもらい、久しぶりにモテ感を満喫している次第なのだけれども、これらはどちらも、すぐに冒頭の文章が生まれ出て来た。それに比して、便秘のように、どれだけ唸っても、これらエッセイについての感想も、何ならタイトルも出てこないのである。

それで矛先を変更して、もう一つのエッセイ集を手にとってみた。『暮らしの文藝 片づけたい』(河出書房新社 2017)である。これも、柴田元幸の散らかしエントロピーや、澁澤龍彦の物質フェティシズムや、幸田文の刺さる言葉や、池内紀のゲーテの死ぬ間際のことなど、片づけたいけど片づけられない人々の温かい言葉を総覧できる、珠玉のエッセイ集である。

片付かない事態に開き直るエッセイがやはり、私の片付かない心を勇気づけてくれて、よい。片づけられる人のエッセイはうらやましく思える。

「世の中には2種類の人間がいる。片づけられる人と、片づけられない人とね。」

という、春樹風のアフォリズムが出て来たのだけれども、これはすでに誰かが言ってるんだろう。私は当然、カラマーゾフの兄弟を読み通したこともないし、片づけられない人の代表格である。

ただ、トイレも片づけられないも、どっちも、言葉が出てこなかった。エッセイだからなのか、アンソロジーだからなのか、面白いからなのか。

もう一つチャレンジしてみた。トマス・フィンク、ヨン・マオによる『ネクタイの数学 男性の首に一枚の布を結ぶ85の方法』(新潮OH!文庫 2001)である。

これも面白い。首にネクタイを結ぶやり方の可能性を、トポロジーや結び目理論といったもので応用し、何通りあるか考えてみる、そんなことが書かれている本である。

ただ、本題に行く前に、ネクタイの歴史や起源に関する諸説なども、簡単にだが紹介されていて、興味深い。例えば、17世紀の三十年戦争期にルイ13世がクロアチア騎兵隊を組織した際に、彼等がしていたネッククロスをフランス兵たちもまねて、それが伝わっていった、というのが定説になっている。ただ、その前に14世紀の詩人がすでにクラヴァットという言葉を使っていた、とネットの中の言説には転がっているが、この本では、その詩人が「フランスの詩人ユスターシュ・デシャン(1340頃~1407年頃)」であることをキチンと指摘している。ただ、このクラヴァットがネッククロスを意味しているかどうかはわからないようだ。

また、ネクタイは先に女性がしていた説が、ネットには転がっていたりするのをみたりするけれども、これも、古代ローマ兵だったかクロアチアだったか忘れたけれど、兵として戦場に出る恋人に送ったネッククロスの一部を女性たちが自分も身につけていたことからことを曲解した珍説だろう。

いずれにしても、このエッセイの前半は、文化論的な紹介があって、後半の数式がよくわからない人にとっても楽しめる一冊である。私も、また、付録についている数式については、もうよくわからない。

以上、3冊、エッセイ本の感想を記そうとして、何も書けずに終わった記録となる。

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