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「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 エピローグ11 寂しさについて」/会社の古い友人が出身地の実家に帰っていきました。

昨日、会社の古い友人が、出身地の山口に帰っていきました。その友人は、同い年で昨年一緒に会社を定年となった府来るからの友人です。

お互い子供二人づつの家庭を持ち、子供たちが独り立ちしたこともあり、出身地の山口にUターンしたということです。
夫婦ともに山口の人であったということがUターンしやすかったのかもしれません。

これまでも一月に一遍くらいづつ、会って一時間ほどだべっていたのですが、これからはそうもいかなくなります。

それで昨日、その友人の住んでいたところへ車で訪問し、しばし別れの言葉を交わしました。
妻同志も若い頃会ったことが有ったので夫婦で会いました。
寂しくなると泣いてしまいそうだったので、取り留めない話だけして、また山口の方へも旅行に行く、とのことだけ約束して別れました。

昨今、母の介護の大変さに、いずれ母も無くなるんだということを強く意識するようになって、自分の死も遠くないことを思うことも多くなりました。
それは、いわば「年を取った」ということなのでしょうが、若い独身の頃も「死」を意識することでこそ、「生」がより意味のあるものになると言った哲学を意識しましたが、似たような精神状況にあるような気がしています。

そういう意識でいると、同時に非常な寂しさを感じることもあります。
この寂しさは、「出家とその弟子」で深い信仰を得た親鸞が漏らしいた「寂しさ」と同じなのかもしれないと思っています。


このことは、ここ数年、20代の頃恋焦がれた美しい女性への思慕が募ることとも関係しているのではないかと感じています。


人間は、還暦になると、二度目の青春を経験するのかもしれません。



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