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「三十五年越し エピローグ10」/余震にも本震にもなり揺れるやむに已まれぬ恋ごころ、そしてあの世での美智子さんとの再会のために

 もともと「三十五年越し」の本編を書き始めた時、九割がたは書き上げた状態になっていました。
 昭和六十二年四月の一回きりのデートの時の美智子さんの水玉のワンピース姿というのは、三十五年経っても鮮烈な印象として私の記憶に刻まれていました。相聞歌という名の恋歌にもそのイメージを私なりに精一杯のまごころを込めて歌ったつもりでした。

 しかし、つい一か月前の令和四年六月、三十五年も経った雨の日の朝の通勤途上、水玉に込められた彼女の思いに気付いたことは、三十五年の私の心の風景を一変してしまいました。余震が収まらないとも書きました。
 今は、時に本震かと思えるほど心が揺れるときが有ります。

 昭和五十九年、彼女が大学一年生、私が大学院修士一年のときに私の方が一方的に好意を持ち、昭和六十二年までの三年間の間に恋焦がれるまでにその恋を放置し、ようやく訪れたあの時の大阪梅田の高層の喫茶店でのデート。
 三年も恋を放置していたのは私なりに理由はありました。学生の活動での繋がりでしたので、変な言い方をすれば彼女が現役のうちには四年も先輩の自分が手を出すわけにはいかないだろうというふうなものです。
 そういう意味で、あのデートは彼女がメイン学年の三年生を終え、四年生になったときでした。
 
 あのデートの一年前、私が修士を卒業するその三月の末に、たまたま彼女が、卒業ですね、と声を掛けてくれて、私の方が昼間なのに少しお酒も入っていた勢いで初めての米国旅行の出来事を興奮気味に彼女に伝えたのでした。珍しく話し込んでしまったなあと思ったのを覚えています。
 大好きな「雨に唄えば」をそのさらに一年前に映画を観たその印象をもって、米国旅行の最終ニューヨークのブロードウェイの舞台で最前列で観た興奮が、話に熱を入れさせていたのだろうと思います。
 彼女と話を出来ているということが一層胸を高鳴らせていたとも言えます。

 その時から一年後のデートまでの間に、二、三回はOBの集いのようなもので彼女と顔を合わせてはいました。私はそのOBの世話役みたいなものをやっていて、その間も彼女は良く気を利かせて協力してくれたものでした。
 その一年の間にそういうこともあって、デートのお誘いをする前にOBの催しの協力に対する御礼のつもりで彼女に手紙を出しました。彼女が手紙の返事を丁寧に返してくれたことを覚えています。
 彼女は本当によく気がきいてしっかりした女の子でした。

 それもあってか、四月になり突然のように我慢が出来なくなり彼女の自宅に電話をかけ、逢ってくれないか、とデートを申し込みました。緊張していましたので彼女がどういう気持ちで答えたか、などは全くわかりませんでしたが意外にも「はい」という返事で、夢中で待ち合わせ場所や時間を一方的に話したのでした。

 まあ、国立大学の理系の修士出身のむさい男子のやり方としては、さして珍しくもないものです。そして彼女は府立高校の出身でしたが神戸の言わばおしゃれの代表格のような女子大の四年生でした。
 自分でもそういう自覚もありながら、約束のデートに向かっていったのだと思います。

 しかし、そんな卑下した気持ちがこういう場合にアダとなるということがわからなかったのですね。そう意味でもまったくの大馬鹿者です。
 結果がどうのこうのと考える前に、素直に落ち着いた気持ちで積極的な姿勢を保ち続けるということが必要だったのです。
 慣れないデートであればなおさら、話が決してうまくはない国立大学の理系出身の男が出来ることは、素直な好意を抱き続け、それを態度で表し続け、彼女の話を受け入れ続けるという、そういうやり方しかなかったのだろうと思います。

 ただ、本当にそのデートに現れた彼女は美しかった。本編ではアイボリーホワイトと書きましたが、もしかしたら真っ白だったかもしれません。
 その真っ白に黒の水玉模様、七分袖のワンピースをまとい、肌の白さと健康さが浮き立つような頬と可愛いルージュの唇、きれいにつやつやとした細くしなやかな黒髪、鼻の横向かって左側にある可愛いワンポイントのほくろ、七分袖からのぞく腕から手首のさきにある弾むようで柔らかそうな白い両の手、立ち居振る舞いがすっきりしているため少しふくよかなのにすらっとして見える全身、小ぶりだがほのかに増した胸の膨らみと引き締まっていても豊かな腰つき、そういったものすべてが水玉のワンピースに包まれて大人の美しさと清楚な可愛らしさの素敵なバランスを存分すぎるほどに表現していました。
 加えてその女性らしい心根が静かに優しく私を圧倒するように香ってくるのでした。
 
 そして、その服装に込められていた意味が、『雨』であったとは。
 
 美智子さんは、私の気持ちがわかっていたのだろうと思います。でなければ私との思い出の会話「雨に唄えば」の意味を込めた服装を着て来るわけもないでしょう。ただそうだとしてもそういうことに気付いて、実際に取り揃えてその場に現れるというのはとても勇気の要ることです。私は彼女のその心を思えば、感謝の念を抑えることができません。
 
 私の心に今に余震が続き、ときに本震並みの強い揺れがあるというのは、いくつになっても収まらない、生への尽きせぬ情熱とコインの表裏をなす恋の成すわざだと思いますが、若き日の美智子さんへの恋が私の人生の中ではそれほど大きなものだったということでもあります。
 あの三十五年前のデートの瞬間までは、彼女と私の間に線が繋がっていたのだということが胸を締め付け、掻きむしられるような思いに駆られます。同時にあの頃の私が自分で思うより、彼女から見てマシな男だったことに多少の落ち着いた満足感を齎してくれています。
 
 あの時彼女を前にして、私に、素直な好意を抱き続け、それを態度で表し続け、彼女の話を受け入れ続けるということができていれば、白地に水玉のワンピースに込められた思いに気付いていたはずです。
 その意味が分からなくても、素直になれず神経過敏症状の中で自己否定に陥り醜い顔を呈して彼女にも緊張を強いてしまったような愚かな状況は決して作らなかったはずであり、その後会話を続ける中でお互いの気持ちが寄り添っていくという自然な流れが出来ていた蓋然性は高かったはずです。

 本当に彼女には申し訳ない気持ちでいっぱいです。それが二つ目の強い心の揺れの正体です。
 水玉に『雨』を表現してまであの日のデートに来てくれた美智子さんのまごころを全く分からず、自分のことしか見えていなかった大馬鹿者はなにも言えず伝わらず、彼女をして不安な気持ちにさせてしまったのではないか、と思います。

 もちろん、彼女は賢い女性であり、おそらくはあの後しばらくは私を待っていてくれたかもしれません。しかし、私のしたことは非礼以上の行為で決して言い訳の許されることではありません。
 
 ただ今に私が安堵するのは、二年半後に偶然阪急曽根駅で会った時、私の目が一瞬捉えた彼女の目元に顕れた暗い影です。それは、彼女が非礼以上の行為とまで見做したかどうかはわかりませんが、私のことをネガティブに捉えてくれていたということでもあります。二年半の月日によって彼女の中では、私とのデートのことがネガティブなものとなった。
 そうだったとしたなら、私という存在が、彼女にとって人生の基盤を形作る一つの「踏み台」になっているということでもあるでしょう。
 それは私にとってまさに本望です。
 もちろん、そうであっても彼女にとっては、女性の人生にとって過去の恋愛沙汰が男性にとってのそれと比べ物にならない、過去の遺物であるとの一般則から推して、もう私とのことは既に記憶のかなたへ消えてなくなったものであろうと思います。それも今の私を安堵させてくれます。

 さて、一方、白地に水玉模様に込められた彼女の思いは、私にとって今後どういう変化を齎すのか、です。この点は、彼女が今に「坂の上の雲」に鎮座する女神という存在であることに変わりがあるわけではありません。ただ、あの時に彼女があの梅田の高層の喫茶店にもってきてくれた私に対する優しい心根というものは私の人生にとってはどれほどのものなのか。まだ、その大きさを測りかね、心は揺れ動いています。
 私の愛した田中美智子という女性がどれほど心優しく美しい素晴らしい女性だったか、その感動が今の心の揺れのもう一つの正体です。
 還暦まで何とかやってきて、ようやく、女神に褒めてもらえると思ったけれど少しまだやり足りないのではないか、という思いがしきりに湧いています。


 美智子さんが白地に水玉模様のワンピースに込めてきた思いに、還暦の今になって「三十五年越し」に気付いたのは、まだまだ貴様はやらなければならないんだという、天からの激励のサインなのかもしれません。

 残された人生を必ずや女神である田中美智子さんに褒めてもらえるよう歩み続けようと思っています。
 そして、現世で再会できたらと思わないわけがないが、来るべきあの世でこそ、あのデートの時に戻り、大阪の高層の喫茶で白地に水玉のワンピースに包まれた美しい彼女とゆっくりとお互いの思いを語り合い、そして春の午後の日の麗らかな御堂筋を、手を繋ぎ微笑みを交わしながら思う存分に歩いてみたい。


 
 
 
 
 
 
 



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