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「乃木大将と今村大将」/そのかかわりを「今村均回顧録」を中心に その2 明治四十五年九月

その1の中で記載しました、下記の事項に関して記します。

明治45(1912)年9月乃木大将殉死

 今村大将が中尉のとき、練兵中に従兵須藤一等兵に乃木大将殉死の報を知らされます。

この時点で、今村さんと乃木さんには直接の関りは生じていません。もちろんこのとき乃木さんは亡くなられるわけですからその後生きて関わることはなかったわけですが、次回記事2)で詳しく述べますが直接乃木さんと関わりを持った岳父の千田登文翁を通して関わりが生じてきます。

このとき、今村さんは少尉任官から5年弱で中尉になっていました。この年明治45(大正元年、1912年)年の12月には陸軍大学校へ入学することになります。
その前の二年間、朝鮮駐箚から帰国したところだったと「今村均回顧録」には記してあります。
そして、朝鮮駐箚間には手当がある程度出る形になっていることから、多少の貯えができたとして、当時出始めた蓄音機と50枚ほどのレコードを購入したとしています。
レコードは、日露戦争前後では学生が詩吟が好まれていてレコードもそういうものがあって好まれていたと記されて、今村さんも謡うことも含め詩吟に熱中したということです。
そして、乃木将軍の漢詩を良く聞いたということです。
2つの乃木さんの漢詩を挙げています。

1)金州城外
   山川草木轉荒涼 (山川草木転(うた)た荒涼)
   十里風腥新戰場 (十里風腥(なまぐさ)し新戦場)
   征馬不前人不語 (征馬前(すす)まず人語らず)
   金州城外立斜陽 (金州城外斜陽に立つ)
2)凱旋(回顧録には「凱歌」となっています)
   皇師百萬征強虜 (皇師百萬強虜を征す)
   野戰攻城屍作山 (野戦攻城屍山を作(な)す)
   愧我何顔看父老 (愧(は)ず我何の顔(かんばせ)あって父老に看(まみ)えん)
   凱歌今日幾人還 (凱歌今日幾人か還る)

このような乃木さん作の漢詩の詩吟を良く聞いていたということで、従兵となっていた須藤一等兵もそれを一緒に良く聞いていたでしょうし、今村さんの心中をよく理解していたと思われます。

そういうことがあって、乃木さんが明治天皇の御大葬の日、明治45年9月13日に自刃されるというニュースがあったわけです。
そのとき、今村さんは仙台北側丘陵地で錬兵中だったのですが、従兵の須藤一等兵は数日前から風邪を引き練兵休になっていたのが、ニュースを聞いて今村さんに報告に来たということです。
以下、「今村均回顧録」より少し長いですが引用します。

「須藤初五郎一等兵は、私の前にやってきて敬礼した。斜面を登ってきたので、息づかいを荒くしながら、
『中尉殿!明治陛下の御あとを追い、乃木大将閣下がご殉死なされたことが、発表されました』
と云う。息切れの語勢や調子から、一層の感激がこめられているように聞かれた。
『ああ、そのようか・・・・・』
崇厳の気に打たれ、しばらく沈黙をつづけた。
『須藤!もういいのか。無理をしてやって来たんじゃないのかな』
 この兵は数日前から風邪引きの発熱で、練兵休になっていた。
『きのうの午後から、調子が良くなりました。佐藤中尉殿に申しましたところ、行って知らせて来てもよいと、。許していただきました』
『わざわざ来てくれて有難う。もう一時間ほどして帰る。見ていてもよいし、からだの都合では、さきに帰っても良い』
 彼はそのまま山頂にとどまった。
 台の原丘阜地は、高さはずっと低いが、一般の地形が、戦史で読み、地図で見る旅順の地形に似ているように想像され、ここでの演習はいつも気合いがかかった。乃木大将ご殉死を聞いた今の私の眼には、目の前に見える丘阜が、そのまま旅順のように思われた。
 どうして須藤従兵が、風邪引きあがりの身で、自転車を飛ばしてきたのかの気持は、私には、ちゃんとわかった。私は軍人になってから四ヶ月まえまでは、ずっと営内居住だけをやり、町の下宿生活はしていなかった。それが陸大受験準備の都合上、兵営の西側に接している幅約百米ぐらいの、榴が岡公園向う側の、すし屋の離れ座敷に下宿することになり、須藤は朝夕、日曜日は朝からやって来て、いっしょに蓄音機をかけ、彼もまた、『山川草木うたた荒涼』や『凱歌今日幾ひとか還る』を聴き覚え、レコードについて、私と声をあわせて吟じていたので、乃木将軍の御自決を、私に知らせようとしたためだろうと思われた。―――彼はなんともいわなかったが―――。」

なんとも味わいのあるあたたかい人間味が独特の筆致の中に感じられます。



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