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「読書生活とそのきっかけをもらったこと (1)」/高校時代

 思春期に教師の語りから読書人生のきっかけをもらうことがある。質の良い読書というものが人生に豊穣を齎すことは紛れもないことで世間の荒波に翻弄されつつ生き抜く力を与えられもするものである。

 それはやり過ごす糧であったり絶えぬ希望の源泉であったりする。また読書そのものが人生そのもので得られるに勝るとも劣らない喜びである場合も多い。さすれば、そのきっかけをもらうということが如何に大きなプレゼントであるか、齢還暦の男としてみれば感に堪えないものがある。

 高校二年生の現代国語の先生は確かT先生と言った。三十を一つ二つ超えたぐらいであろうか、声にパンチがあり、精神的に幼い高校生にとって怖いタイプであったが言葉そのものに力があった。反抗期にあった生徒たちは当初、恐れつつ反発する心模様であったが、いつしか言葉の奥にある精神の襞、輝きに魅せられていったように思う。
 高校卒業後十幾年か後、三年間担任だったY先生に同窓会で、「国語の先生は好き嫌い、評価が分かれるんだよなあ」と告げられたが、そういうものでもあろうと思われるが、自分にとっては紛れもない宝の経験だったと言ってよい。


 T先生は岡山、公立のトップ進学校、朝日高校を出て早稲田大学文学部をご卒業とのことだった。興味深かったのは朝日高校に浪人をして入学したということだった。当時の見た目でも恰幅がよく浅黒く日焼けした不敵な顔から、朝日高校の同級生の中でも相当異質な存在感を醸す中でその個性が形成されたであろうことが何となく想像できた。


 その授業は、教材である詩や、小説、論説を生徒に読ませたりご自身で読み聞かせて、質問はないかと問いかけ、応えるというものだったと記憶している。応える中で様々な話に展開したり、雑談を語るというもので、例えばコケティッシュという言葉の意味ということで、「山口百恵は色気があり過ぎて当たらず、桜田淳子くらいの幼さと色気のバランスを言うのだ」と、エネルギーが溢れんばかりの高校生がぞくっとするような教え方をした。「このクラスは、優秀なクラスだから、教えるというより質問に応えることで授業とする。俺にとって君らの聡い反応を感じることができて非常に楽しみな授業なのだ」などと言い、生徒の自尊心をくすぐってモチベーションを上げようとしていたのかもしれないし、半ば本気で言っていたのかもしれない。

(2)につづく。

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