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「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 エピローグ2」/『雪埋梅花 不能埋香』2 定年講演

『雪埋梅花 不能埋香』の1でお話ししました、赤堀四郎先生は、明治33(1900)年の19世紀生まれですので、私(昭和36年1961年生まれ)は直接謦咳に触れるということはありませんでした。

1.線で繋がる関係性

しかし、線で繋がる関係性は明瞭に感じています。
赤堀先生を直接拝見したことは一度だけあります。それは昭和60(1985)年3月赤堀先生の弟子筋にあたる、大阪大学たんぱく質研究所所長泉美治教授の最終講義の席でした。
弟子筋の最終講義に来るというのは普通そうあることではないでしょうから、当時修士の学生であった私にも、赤堀先生と泉先生との間柄がしのばれたものです。
のちに知ったことですが、泉先生は大阪薬学専門学校(のちの大阪大薬学部)をご卒業後、和光純薬工業に就職、戦後労組活動などもされたのち、赤堀研究室に研究生となられ、そこで認められ、さらに研究成果を上げられ、大阪大学教授さらにはたんぱく質研究所所長と履歴を重ねられたのでした。
詳しいことは私にはわかりませんが、先述したように赤堀先生が夜間中学、千葉医専薬学科をご卒業したのち東北大学に入学するというご苦労を重ねられて進学されたことも考えますと、赤堀、泉の子弟関係の中でなんらかの濃い縁が結ばれているのであろうと思われるのです。

私は、泉先生から直接の指導は受けておりませんが、生涯の中でも忘れがたい言葉をかけていただいております。
昭和58(1983)年9月大学院修士試験の諮問試験の折のことです。当時私は本当に勉強不足の学生で化学を志すにもいろんな意味で不足がありました。学科試験は直前の勉強に次ぐ勉強でなんとかできた記憶があるのですが、諮問に答える力はありませんでした。いくつかの諮問を受けて碌な回答ができず、最後の質問に、
「第六感を生かして研究します」とだけ答えましたが
「君の第六感とは何だね」と突っ込まれ、しどろもどろ、
かなり時間がたってこれは不合格かな、と観念しましたが、
そのとき坊主頭の泉先生が
「自分の直感を信じて、頑張ってくれよ」
となんとも、今思い返しても泪あふるる暖かい言葉をかけてくださいました。
あれは何だったのでしょう、あの時の私に何か泉先生をして言わしめる何かがあったとは思われず、そうとすれば泉先生の中に菩薩かなにかがいたとしか思われないのです。
私は、これまでの化学者人生で、この言葉にどれだけ支えられたか、わかりません。生涯忘れ得ない言葉です。

それから一年半後、赤堀先生も来ていらっしゃった泉先生の最終講義です。大学院入試のことが有ったものですから、期待をして最終講義に行きましたが、それは期待を越え、私の化学者人生の指針ともなるインパクトの大きな最終講義でした。
その研究内容は、ここでは紙幅が足りず、以下を参照いただくしかありませんが、私が一層感銘を受けたのは、化学者としての泉先生の哲学でした。

当時、有機化学においては、右手化合物と左手化合物を触媒により作り分けるという大課題に対する研究の進展が急でした。
(のち、この研究分野で野依良治先生がノーベル賞を受賞されます)
そして泉先生は、先駆者として研究を一筋に進めておられ、現象のみでなくこの分野の研究哲学を提示しておられました。
そして、最後のスライドが、仏教哲学用語の「無明」という毛筆書きの一枚でした。

「無明」と『雪埋梅花 不能埋香』には濃厚に通じるものがあると思います。
「無明」は、素直な目で現象を見抜かなければ科学真理には到達できない、というような意味を含んでいると思います。
そして、それは科学や化学だけでなく、人生においても素直な心の重要性を指し示しているのだと思われました。

2.泉美治先生の哲学

泉先生の哲学については、私はほんの最近になって読ませていただいた本当に劣等生中の劣等生です。
そして、
『科学者の説く仏教とその哲学』(学会出版センター)、
『科学者が問う 来世はあるか』(人文書院)、
『科学者が説く倫理喪失時代の哲学 仏教の唯識に学ぶ』(学会出版センター)
を読み重ね、恥ずかしながらそのまごころを改めて認識した次第です。
私のような、一人の凡庸な化学者が曲がりなりにも何とかやってこれたのは泉先生の言葉と思想によるところが極めて大きかったと言わざるを得ません。
今なお、感謝の念が尽きることが有りません。

泉先生は長命され平成27年12月13日に九十四歳で幽冥界に旅立たれました。合掌。


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