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「今村大将の軍歴概観2/大東亜戦後」いわれなきB、C級戦犯の罪に問われた部下と共に、そして戦争犠牲者の援護のために

前報で今村大将がラバウルで大東亜戦終戦を迎えたことを記しました。

ラバウルへは豪軍が進駐することになり通達をしてきたが、今村軍は「本国大本営から指示がいまだなくこの状態での貴軍の進駐は戦闘を惹起することを免れない、こちらからの連絡あるまで行動を控えるように」という誠に理に叶った返電をしています。
これは、ポツダム宣言はあったものの、自衛戦闘を妨げずということで、同じ終戦時に北海道を守った北方第5方面軍司令官樋口季一郎中将と等しいスタンスで危機管理能力が現れていると思います。

いわゆるB、C級戦犯裁判が始まる

その後、豪軍進駐がありました。そしていわゆるB、C級戦犯裁判が始まったのです(昭和20(1945)年末から)。
当初豪軍は日本軍の規律が厳正に保たれている実情を目にし、ラバウル方面に戦争犯罪の類はなかったと豪本国にも報告しました。
しかし、上方組織からの圧力に負け、進駐軍が戦犯摘発を進めるようになります。そしていわれなきもしくは不十分な嫌疑で強制収容していきます。
これに対し、今村さんは、理路整然と抗議書を提出しますが、当局は取り上げませんでしたので、今村さんは自ら収容所入所を志願し、部下と共に裁判を戦うのです。
しかし裁判そのものが、戦勝国の判事のみで行われ、証拠に対する反対尋問もない等々、裁判とは言えぬもので部下の多くが裁かれていきました。幾分かは、今村さんたちの努力により罰を減じたり、無罪にしたりという例もありましたが、二十九人が生命を奪われ、七十五人が獄内で苦役を強制されました。今村さんの苦渋は「幽囚回顧録」に満ち満ちています。

今村さん自身も最後の裁判で10年の刑が言い渡されましたが、早速と言うべきか、ジャワ攻略戦で惨敗を喫したオランダ軍によるジャワでの戦犯裁判のため、ジャワに強制送還されたのでした(昭和23(1948)年5月)。

ジャワ戦犯裁判

ラバウルでもそうでしたが、ジャワでもいわれなき罪に問われた部下や旧部下、そして海軍軍人も含めた若い人たちに対して、今村さんは、聖書や歎異抄などの言葉も使いその心を慰めつづけました。

ジャワでも、今村さんの裁判は最後に行われました。オランダはまさに復讐心に燃えて死刑を求刑し、あらゆる手段を使って死刑にしようとします。
一方、ときはインドネシア民衆による独立戦争の最中です。銃声轟く中、今村さんの裁判は進行しており、昭和17(1942)年当時協力関係にあったインドネシアの領袖で大統領になるスカルノからは独立軍による救出さえ申し伝えられます。

しかし、今村さんはこの裁判を戦闘の継続と覚悟し戦い抜きます。タイミングよくオランダからのインドネシア独立が国際社会により決定されたことも影響があったでしょうが、今村さんのジャワ統治実績と裁判での合理的弁論が裁判長の良心に届いたものでしょう、ついに無罪を宣告されます。

日本搬送後、志願し豪軍マヌス島収容所へ

判決後、昭和24(1949)年12月、日本に搬送されます。
ジャワ裁判は無罪でしたが、ラバウル豪軍の裁判は10年の刑でしたので、日本での収容所巣鴨に収容されましたが、ラバウルで刑を宣告され場所をマヌス島に移した収容所では部下たちが暑熱の中で苦しんでいました。
今村さんは迷わず、見舞いに来た奥様を通して進駐軍へマヌス島への送還を嘆願します。
そして昭和25(1950)年3月からマヌス島で部下たちとともに昭和28(1953)年5月まで苦役を共にします。

巣鴨へ、そして出所後、三畳一間の謹慎部屋で戦争犠牲者の援護

その後、刑期を終える昭和29(1954)年10月までを巣鴨収容所で過ごし、出所します。
世田谷の実家に戻ると、三畳一間の小屋を建て、そこを謹慎部屋と称して独居するようになります。

ラバウル、ジャワ、マヌス収容所中から、ありあわせの紙に鉛筆で丹念に回顧録を綴ってきていました。実家の謹慎部屋でもその執筆を続けます。
そして出版し、その印税は全て戦争犠牲者の援護に使用されたということです。


以上ここに記しました、戦後のいわゆる戦犯裁判の記録は、既述した「幽囚回顧録」に記録されています。
いまは中公文庫で入手できますが、私の手元には中公文庫版と秋田書店発行昭和41(1966)年初版の「幽囚回顧録」があります。
後者には、
あの東京裁判と言われる極東国際軍事裁判の日本側弁護団副団長、東条英機元首相の主任弁護人を勤め、
長く衆議院議員を勤め、これも巡り合わせなのでしょうか、岸信介首相時のあの安保改定時の衆議院議長を務め大けがをしながらも安保改定の決議をした、清瀬一郎さんが序文を寄せています。
最後に、
ご参考までにその全文を掲載させていただきます。

 本書は、元陸軍大将今村均氏が、戦後、いわゆる戦犯として、ラバウル、ジャワ、マヌス島の刑務所に、約十年間の拘禁中の獄中記である。
 万教帰一を信念とし、死生を超越した氏が、当時ありあわせの紙に、鉛筆で思いのままを丹念に綴られたものであり、この文章には氏独特の筆致があり、あたたかい人間味と豊かな情操が紙面にあふれている。
 しかのみならず、戦後、豪、蘭、米の設置した軍事裁判の組織、裁判の記録、刑務所の運営が、手にとるように浮かびでている。
 本書は、東京裁判に於ける東条口述書とならびたち、後世の史上に残さるべき二大記録である。
 すでに終戦二十年となるも、いまだ戦犯に関する世間の誤解がとけず、その善後処理も完からぬ現況にかんがみ、本書により。世紀の悲惨事たりし戦犯問題が、正しく世に理解される端緒となれば幸せである。

昭和四十一年新春吉日







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