見出し画像

「昭和二十(1945)年八月十八日 占守島での激戦を戦い抜いてなければ北海道はソ連に占領されていた」/池田末男戦車十一連隊及び独立歩兵282大隊の全将兵に哀悼の誠を捧げます

昭和二十(1945)年八月十八日 占守島での激戦

本日8/19(土)の産経新聞の産経抄は、ポツダム宣言受諾通達(1945.08.14)後の昭和二十(1945)年八月十八日の占守島でのソ連軍の侵攻に対する占守島守備隊の激戦について記している。
ちなみに占守島は、千島諸島最北端の島であり、日本領北端の島だった。

8/18樋口季一郎中将軍司令官の反撃命令

統括の日本軍第5方面軍司令官樋口季一郎中将は、8/18のソ連軍占守島侵攻の方に対し、ポツダム宣言受諾通達後であり終戦の詔勅放送(1945.08.15)後であったが、占守島守備隊に「断固反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」と直ちに命じた。

池田末男戦車十一連隊及び独立歩兵282大隊の抗戦

その激戦となった抗戦について、鈴木壮一さんが「名将乃木希典と帝国陸軍の陥穽」(さくら舎)の最後部で簡潔に纏めてくれている(それは、「北海道を守った占守島の戦い」上原 卓(祥伝社)を引用してのことと思われます)。以下そこから引用します。

「樋口中将からの反撃命令を受けた、占守島守備隊の戦車第十一連隊長池田末男大佐は隊員全員を集めて、
『我々は家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。しかし事ここにいたった。そこで諸氏に問う。赤穂浪士のように恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするものは一歩前に出よ。あるいは会津白虎隊のように、玉砕をもって日本民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするものは手を挙げよ』
と述べた。すると隊員全員が、雄たけびとともに、手を挙げたのだ。
(中略)
結局、戦車第十一連隊は二十七両が撃破され、連隊長以下九十六名の戦死者を出しながらも、ソ連軍を水際まで押し返した。」

8/19産経新聞産経抄は、占守島でソ連軍は日本軍の5倍の約3千人もの戦死者を出したと記している。

日ロ漁業占守島工場女子従業員四百名の占守島脱出、根室帰還

さらにこの終日戦闘の続いた昭和二十年八月十八日、日ロ漁業占守島工場の日本人女子従業員約四百名は二十二隻の船に分乗して島を離れ、五日後に根室港に帰還した、と鈴木さんは記している。

南樺太でもソ連軍侵攻部隊に対する日本軍の反撃が成されたことは忘れてはならないことです。

これら昭和二十(1945)年八月十五日以降の激戦がなければ北海道はソ連に占領を許していたはず

これら終戦の詔勅が発せられた以降の、北部方面での日本軍の激戦が無ければ、迅速なソ連軍の侵攻が成され北海道までのソ連軍による占領が成されていたことは間違いないと言われています。

反撃を命じた樋口季一郎中将、占守島で日本民族の防波堤となり闘った将兵

我々は、戦後の平和をともすれば当然のように享受し、北海道への観光旅行を楽しんでいます。
しかし、昭和二十年八月十八日のソ連軍の侵攻に対し、このように敢然と反撃を命じ、激戦を戦い抜いた第一線の将兵の存在なしに今の北海道は存在しません。

慰霊の夏は、八月十五日以降も続きます。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?