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「日露戦争奉天会戦/司馬遼太郎史観に騙されないで その1:奉天までの野戦の経緯」 乃木さんの孤独な闘いと殊勲

 日露戦争の陸戦のクライマックス、奉天会戦について述べさせていただきます。
 陸戦のうち、旅順要塞攻防戦については既に記しましたので、そちらをご覧ください。

1)遼陽会戦(明治37年8月)
 奉天に至る野戦の経緯を若干述べておきます。まず、日露両軍が南北に対して雌雄を決すべく闘った第一戦は遼陽開戦です。
 露軍は遼陽に陣地構築し、日本軍を待ち受けていましたが、日本軍は自陣中央から左翼に奥第二軍と野津第四軍の主力でもって露軍主陣地を抜くことで一気に勝利を確定しようという作戦を立てますが、作戦は膠着、露軍陣地はびくともしません。
 一方、日本軍右翼の山岳地帯において、黒木第一軍が弓張嶺陣地への夜襲から山岳地帯を抜きつつ進み、太子河を渡河し、遼陽の裏手を回らんとする形成を示すことで、敵将クロパトキンが退路を断たれることを恐れ、奉天への退却を決断します。
 黒木第一軍の活躍により、双方の被害は同程度でしたが、前に進み遼陽城を確保した日本軍が辛うじて勝利の形を得ました。

2)沙河会戦(明治37年10月、沙河は奉天遼陽間の河川)
 遼陽会戦後、露軍は奉天陣地に、日本軍は遼陽に陣地構築し対陣します。遼陽後、日本軍の動きが緩慢なことから、敵将クロパトキンは、遼陽での日本軍の被害の大きいことを悟り、攻勢に打って出ます。
 日本軍最右翼を突破し、東から日本軍を包囲し殲滅しようとの企図です。
 日本軍右翼は梅沢近衛後備混成旅団で弱小部隊であったことで日本軍に危機が訪れます。露軍は日本軍左翼西部戦線でも攻勢をかけながら、日本軍右翼の黒木軍のさらに東、最右翼の弱小梅沢支隊を破砕し東から日本軍を包囲、殲滅しようとします。
 ここで日本軍は左翼奥第二軍と左翼から中央の野津第四軍が露軍を攻撃、夜襲を敢行、戦線を西北側へ旋回せんばかりに攻撃を強めます。この間同時に奇跡的なことですが、最右翼梅沢支隊が露大軍の攻勢をしのいで陣地を守り抜きます。
 この左翼での旋回攻勢と最右翼での梅沢支隊の粘りにより、露軍を奉天への退却の已む無きに至らしめました。
 沙河でも日本軍は辛勝を得ました。

3)黒溝台会戦(明治38年1月、黒溝台は奉天遼陽間の西部台地)
 このまま満洲の極寒期が過ぎる季節を待って、両軍の雌雄を決する会戦を、という両軍の暗黙の了解があるような状況かに見えましたが、敵将クロパトキンは、旅順を攻略した乃木第三軍が満洲戦場に加勢する前に勝敗を決しようとします。露軍から見れば当然そう考えてもおかしくありませんが、日本軍が油断をしていたため、危機が訪れるのです。
 クロパトキンは一月下旬、今度は日本軍右翼ではなく最左翼を破砕し、西から日本軍を包囲殲滅しようと、グリッペンベルグ大将麾下の露第二軍10万で薄弱な日本軍最左翼へ大攻勢をかけます。そこには「坂の上の雲」の主役の一人秋山好古少将麾下の日本軍騎兵第一旅団がおりました。
 攻撃を受けた当初は、北から露軍が攻めてくるというより、数倍の大軍が全方向から日本軍弱小各陣地を攻めるというような壮絶な状況であり、まさに日本軍に大危機が訪れたのです。
 しかし、加勢が来る前の日本軍各陣地は耐えに耐え、もう終わりかと思われる状況を何度も経ながら、耐えます。この戦いは、露軍側は、黒溝台会戦とは言わず、沈旦堡会戦と呼んでいることでわかるように、沈旦堡豊辺新作大佐隊が英雄的戦いを続けたことで結果的に日本軍全体を支える支柱の役割を果たしたといえると私は思います。大攻勢を受けた日本軍最左翼の沈旦堡という支柱が立っていたからこそ日本軍は負けなかったのです。
 総軍司令部のミス(戦力の逐次投入、情報軽視)が有りながらも、豊辺隊が耐えに耐えている間に、立見尚文軍の加勢により時日を稼ぎ、ついに1月29日、乃木軍の遼陽到着との報に怯えたクロパトキンが奉天への退却を決断することになります。
 ここでも日本軍は辛うじて敗戦を免れます。


その2(奉天会戦)に続きます。

以下参考文献


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