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「小説 雨と水玉(仮題)(7)」/美智子さんの近代 ”あの夜の出来事”

(7)あの夜の出来事

啓一は夢中で『雨に唄えば』のことを語った後、
「あのお、それから、来年何年かぶりでOB総会をやることになって、僕も世話役をやることになっててね、現役に協力してもらうことも出てくるかもしれないけど、よろしくお願いしますね。」
美智子はその時初めてこの人に興味を持った。いつもは無口で茫洋として実直そうなこの人がアメリカに一人で行き、場違いにも思えるミュージカルのことを熱心に語ってみたり、OB総会というイベントの世話役をやったりするという。
それまでと違う意外な感じがして、もしかしてかなり面白い人なのかもしれないと思った。

啓一は就職して四月から大阪を離れ、広島に赴任した。座学の研修や現場実習など忙しく半年余り年末まで忙しく過ごした。
その中で、追いコンのとき美智子と初めて親密に話ができたことが頭を離れなかった。
さして様になる落ちの有るわけでもない話を美智子が静かに聞いてくいてくれたことがなにか不思議に感じた。恋はこうやって思いが募っていくものらしかった。
あのとき、微かに美智子から馨しい香水のかおりが漂ってきた。間近で見る彼女のほほの白い柔らかそうで健康的なふくらみと肩辺までのつやつやした黒髪、それと対照的な透き通るような白いうなじが、以後頭に焼き付いて離れなくなった。

その年の暮れ、OB総会の打ち合わせの流れで啓一と10年先輩になるSさんが現役の忘年会に合流した。
もっぱらSさんの相手は啓一が務めていたが、大手の銀行に勤めるSはプライドがめっぽう高く、小一時間盃を交わしているうちに酔いも回ってきたせいか、気分が悪くなった。こんなとき啓一は態度に出てしまうのが欠点だった。
ちょっとした受け答えがSの癇に障ったらしく、啓一は叱られてしまった。しつこくうるさいほどになったので多少こちらも内心穏やかでなかったがこの種のケンカが得意でない啓一は黙って眼だけ光らせていた。興奮は収まらなかったが時間を潰して解散に流れるか、と覚悟を決め、ひとまずトイレに立った。

二、三歩進んで隣りの座敷に踏み入れた瞬間、ふすまの向こうの席にいた美智子がこちらを向いて立ってやり取りを聞いている気配に気付いた。
ハッとした。まずいところを聞かれてしまったと思った。Sとのやり取りより、美智子に聞かれていたことに動揺した。
啓一には、美智子に事情をかみ砕いて説明できる会話力もなく、うろたえを見せそうでもあったのでトイレに慌てて駆けこんでやり過ごすしかなかった。

美智子の耳には、最初に二言三言の激しい言葉のやりとりが飛び込んできた。隣室で喧嘩をしているように聞こえた。ふすまの向こうの出来事なのでよくわからなかったが、しばらくすると年配のSさんの罵声が啓一に次々と浴びせられているのがわかった。
美智子は聞いているうちに堪らなくなって、周りの目も構わず立ち上がってふすまの後ろで耳を澄ました。短い時間だったのかもしれないが、かなり長い時間だったかもしれない。啓一に向かって罵声が続いた。
しばしの沈黙があったあと、気が付くと啓一が出て来て、美智子に気付いたのか、無言でトイレに向かっていった。

その夜、啓一はバツが悪い思いがして美智子に声を掛けることもなく、取るものもとりあえず予約してあったホテルに逃げるように急いだ。
翌朝、罵られながらかなり酒を過ごしたのか、重たい頭で昨夜のことを後悔した。美智子に聞かれていたことが気を重くした。

あの夜、美智子は何かに気付いた。啓一のことを思っている自分に気付いたと言った方が良いかもしれない。啓一が罵倒されていることに堪らなくなって立ち上がった自分に驚いた。
母性本能が働いたのかもしれない、そんな気持ちが自分にあることに気付いたのも初めてだった。
「わたし、あの人のこと好きなのかしら?」


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