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「乃木大将と今村大将」/そのかかわりを「今村均回顧録」を中心に その5  昭和20(1945)年終戦 第八方面軍司令官としての部隊将兵の別辞

乃木大将と今村大将のかかわり その5

乃木大将と今村大将のかかわりについて、「今村均回顧録」から取り上げてきたその5になります。
今村大将(当時中将)は、昭和十七(1942)年十一月に、ジャワ第十六軍司令官からラバウルの第八方面軍司令官に親補されました。
ラバウル着任後まもなく大本営の作戦変更に伴い、ガダルカナルの撤退を指導して残存部隊の撤収に成功したことは、既に「今村大将と昭和天皇」の記事で記しました(下記)。

その後、ラバウルは、今村大将の指導の下、
軍事物資、食料その他含めすべての面で自給自活体制を構築し、
さらには、制海制空権を奪われていく中で、ラバウルに延べで東海道の東京から大垣までの距離にもなるという鉄壁の地下軍事要塞を構築します。
このことによりラバウルは、南洋諸島の中で米軍が侵攻を回避し、海軍三万と陸軍7万を終戦まで維持することができたのです。
ちなみに、私の父方の伯父がラバウルの今村さんの部隊に下士官として従軍していました。そういう意味でこの伯父が南方に出征し生きて帰れたのは今村大将の戦争指導のおかげだったと言えるのではないかと思っています。
このことを含む、今村さんのラバウルでの第八方面軍司令官としての戦争指導については、別途記事にしたいと思っています。

ラバウル第八方面軍司令官としての、終戦

この、第八方面軍司令官として今村さんは、昭和二十(1945)年八月十五日に終戦の詔勅の連絡を受けます。そして部下直轄部隊長会議でその伝達を行いますが、
その後それら部下将兵との、軍事上の指揮と隷属から離れるに際して、今村大将は、部下将兵への別辞を伝えます。

乃木大将作の山川草木の漢詩

その式次第の中で、乃木大将のことが出てきます。
ここで乃木大将のことが記載されているのは、ごく些細な細部のことなのかもしれません。
「今村均回顧録」中には、終戦の詔勅の伝達後、詩吟の達人である若人に三篇の詩を吟じてもらうという記載があります。

その漢詩を掲載します。
  山川草木転た荒涼   十里風なまぐさし新戦場
  征馬進まず人語らず  金州城外斜陽に立つ
これは、日露戦争旅順要塞攻略のため、大連に上陸し攻略を開始したとき乃木大将がその心境を謳ったものと言われています。
この時すでにロシアを相手の戦況は非常に厳しく、乃木大将は長男の勝典をその戦場で失っていました。

そのような背景のある、山川草木の漢詩を、終戦の詔勅の伝達式での別辞の前に、今村さんは部下将兵に聴かせたということです。
そこに残る深い余韻が「今村均回顧録」のその部分を読むと蘇るように感じます。

今村大将の部下将兵の別辞

乃木大将の関連は以上ですが、
このときの、今村大将がそこに会同した約60名の直轄部隊長を通して、部下将兵全員に宛て、別辞をおくっています。
この別辞が非常に感銘深いので、味わっていただきたく最後に引用掲載させていただきます。

 別 辞
「諸君!大東亜戦争は、遂に成らずして、昨日を以て終わりました。ラバウル付近七万の将兵が、この二年有半の間、一心一体となり、人力の限りを尽くして、築城したこの難攻不落の地下要塞、敵の絶対的な空海封鎖にあっても、飢えない現地自活。わけても敵戦車に対する肉攻爆砕の、敢闘必勝の戦意におびえた敵は、ズンケン(南岸)とトリウ(北岸)前面まではやってきたが、それからは進出せず、遂に決戦に至らずして終戦になったことに対する将兵の悲憤さは、私には、よくわかる。しかし陛下が終戦を御決意あらせられたのは、これ以上の犠牲を重ね、根こそぎ日本民族を失わしめては、それこそ、祖国を恢興することを不可能にするとの大御心によるものと拝察する。私は思う。人間は運命、すなわち四囲の環境による影響を脱れることは出来ない。同様に国家もまた運命作用から自由であり得ない。後世の歴史家は満州事変以来の、わが日本の歩みを、さまざま批判するであろう。が、私は、これを民族的宿命と信じている。死中に活を得ようとして起ったこの戦争も、事成らずして敗れた終戦も、また運命であると考える。運命に対し、もっとも平静であり、かつ勇敢であるのは昨日までの敵漢民族です。彼等は四千年の間、いくたびか、他民族に征服される悲運に会ったが没法子(メイファーズ=仕方がない)とつぶやくだけで決して自暴自棄しないで、前以上の努力を尽くし、復興にはげみ、いつの間にか、己らの文化を以て、征服者を征服し、政治的にこれを駆逐している。運命がいかんともなし難いものである以上、運命に執着したり、運命を考えたり、これを悔んだりしても仕方がない。ただ努力精励、再建復興につとむべきである。”艱難汝を玉にす”の句は、個人同様、民族においてもそうである。諸君よ。どうか部下の若人たちをして、失望させないように教えてくれ給え。七万の将兵は、ただ汗と膏とで、こんな地下要塞を建設し、万古ふえつを入れたことのない原始密林を拓き、七千町歩からの自活農園を開拓までしている。この経験、この自信を終始忘れずに君国の復興、各自の発展に、活用するよう促してもらいたい。我々は、敵戦車爆砕のための肉攻精神と、その戦技とを練りに練った。これを祖国復興、日本の光栄のための、産業と科学との振興に振りかえ、あらゆる圧迫と障碍との爆砕に応用するよう勧告してもらいたい。衆心の一致協力がどんな大きな仕事を作り上げうるかを、ここで体験した人々に、復員後、各地方ごとに、日光協会とか、ラバウル会とかいうような、相互協力機関でも設け、助け合うよう奨めてほしい。以上で、私の挨拶を終ります。ここに謹んで、殉国の英霊に対し、遂に戦勝が得られずして終ったことを心からお詫び申し、その御冥福をお祈りし、又この二年有半の間、敵前であったとはいえ、私のような不徳の者を上にいただきながら、誠心誠意、命令に服従し、闘い通された、七万将兵に、私が心から感謝し、私の最後の日まで、決して忘れることがなく、これら戦友の健康とその発展とを祈りつづけることを、諸君よりお伝えねがいます。」

古今の別辞の中で人間性に溢れ、最高度のものがここにあると思います。










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