小学生のわたし②

(①の続きです。)

お久しぶりです。
書けておりませんでした。初っ端言い訳に入るんですが、これ書く気力というかなんというか、ものすごくエネルギーを使うんですよね。

えーー私ごとで恐縮ですが、今週から発熱しまして病院行ったらびっくり。「胃腸炎」。どうやら金曜日まで出勤できないそうです。暇!!!!!まあ神様仏様が私に「この時間ブログを書きなさい。」とでもお告げをしているのでしょう。

ということで、小学校のころからほぼほぼ変わってないこの1人部屋の空間で、ベッドに横になりながら書き綴っていきます。



前回は小学3年生のときまでのエピソードを書きました。今回は小学6年生まで書き切ろうと思います。


4年生のころの主な記憶は

①互いに両思い同士だった(多分?)男の子のことを好き避けしすぎてしまい、嫌われる

②その男の子のことが好きだった女の子に目をつけられて、まあまあな嫌がらせを受ける

③3年のとき一緒のクラスだった私にだけ嫌な態度をとる女の子と再び一緒のクラスになり、また同じループ



正直、4年生のころって「「「私の小学校人生の中」」」ではまあ良くも悪くも大して濃いエピソードはないです。①に関して詳しく書きたいわけでもないですし、②も学校に持ってきたらダメなキラキラのヘアピンを、私が持ってきたことにされたことくらいでもうなんか忘れちゃいましたので割愛。


まあ3年生のとき(詳しくは①)ですでに人とどう話せばいいのかよくわからなくなっていて、大人しくて一人でいることが多かったので、4年のころも引き続き浮いた存在ではありましたね。



余談ですが、③のエピソードで一つ。
女の子「(私が喋るの苦手かつ、わざと通れないようにして)〇〇(私の名前)さん、ここ通りたいのぉ?通れるようにするにはどうすればいいのかなぁ??なんか言ってみて。笑」

私「じゃま」

当時は「なんで『どいて』が思いつかなかったんだろう」と自分を悔やみましたが、今思い返すとちょっと笑っちゃうエピソードです。ちなみに初めて人に「死ね」って感情を抱いたのも彼女でした。


続いて5年生。一学年違うだけでエピソードが重い重い。

①二学期ごろから、かつて友達だった人も含めてクラス全体からいじめを受ける

②不登校になり、担任の先生が毎日家・私の部屋にご訪問

③不登校から支援室登校へ



えーー、まあここまであっさりと「気が弱くて自己主張ができなくなっていった」「恐怖心で人とうまく喋れなくなってきていた」と書きましたが、徐々に、徐々にと、それはいじめと「全体からの孤立」につながるんですよね。
あといつからか笑うことも我慢するようになりました。(「喋らないくせに笑う変な奴」と思われたくなくて、笑う顔を見られたくなかったから)


まあよくよく考えてみてください。
小学校高学年という一番生意気な時期に、なんも喋らん、主張しない、ずっと1人でいるやつなんてね、環境が悪いところだったら「浮く」んですよ。
そしてそういうやつは「暗い」とみなされ、「キモい」となり、最終的にイジメの対象となるわけです。
イジメをなくすのは本当に難しいのに、イジメができるまでの流れはこんなに簡単なんですよ。


まあということで。多感な時期に移り変わっていった周りからはこのように、「キモい」とみなされ再び(一回目は2年生)はっきりとしたイジメを受けることになるんですよね。


机はくっつかないように・くっついたら嫌な顔をされて離され、席替えで私と近く・隣になった人からは「〇〇(私の名前)と近いじゃんマジ嫌なんだけどぉ〜〜」と私に聞こえるように言われ、給食の時間では「こいつ(私)なんも喋んねえじゃんキモッ」と言われ、目を合わすと「ヤダ、見られたくないんだけど(小声)」とヒソヒソ言われ、挙げ句の果てに当時下校で仲良くなった友達からも、一緒になって悪口を言うようになっていきました。





「疎外」「孤独」「孤立」もうすべてが耐えられなくなっていました。






「ママ、学校行きたくない。イジメられてるから。」



ベッドに入って母にそう告げたあの瞬間、今でも覚えています。
今もなお、変わらない部屋、ベッド、カーテンで。



もう精神的にボロボロでした。
毎日嫌な言葉を投げられ、嫌な態度を示されて、低学年のときはしっかりしていたのに、えんぴつは削ってないまま、朝歯磨きもせず、ハンカチティッシュを常備するというのはもっての外、今日の教科書の用意すらできなくなっていました。




不登校になってからすぐ、担任の先生がよく来るようになったのを覚えています。

担任がくると気づいたらすぐ寝てるフリを決め込んでいました。うちの部屋には鍵がないので、担任が私の部屋をあけてズカズカと入って行き、「ねえ、学校に行こうよ。寝てないでさ。起きてよ。」と悲痛な声で訴えてくるのです。帰ったなと思って気を緩めた瞬間、1人で泣くまでがセットでした。5回くらいありましたかね。

どんな経緯だったのかは忘れましたけど、朝の自宅の玄関先で担任に学校に連れていかれそうになることもありました。父も「行きなさい。」と。そのとき私は、必死にどこかにしがみつきながら、「いやだ!!!!!!!!!!行きたくない!!!!!!!!!!!」と泣きながら抵抗していたのを覚えています。そのときは最終的に母からストップの声がかかって、無事に学校に行かずにすみました。


支援室登校の話が出たきっかけは忘れましたが、「クラスの誰とも会わないのなら」ということで行き始めたのは覚えています。
その空間は久しく触れていなかった暖かさに包まれていて、支援室の先生や学校の先生と楽しく喋っていました。今思うと、元々の私の性分は「人と喋ることが好き」なんじゃないかと思います。


5年の最後で支援室登校はやめ、6年生からは再びクラスで頑張ろうと試みていました。



最後に6年生ですね。
①クラス全体からのいじめの対象となる存在ポジ、変わらず
 
②二回目の不登校

③公立中行きを脱出すべく、東京の私立に向けて中学受験



はい。そうですね。
結論から言うと、たとえクラスが変わったとて、6年間同じコミュニティのメンツが心変わりをして、私を受け入れてくれることなんてなかったんですよね。
だって私はすでに揺らぎのない「暗くてキモい」存在だったから。


変わらないのは私も同じで、同級生に対する恐怖心も、恐怖心に打ち勝てずに何にも主張できない無口な部分も依然としてありました。


まあ、5年生の二学期のころとほぼ変わらない日常がずっと続いたわけです。




結局秋になってから、私は完全に不登校になりました。
「支援室登校はしなかったのか?」
6年生のときはしていませんでした。もう再び支援室に行く気力すら失われていたんだと思います。中学に上がるまではずっと家で生活しておりました。


たまに母が気を遣ってショッピングモールとかに連れて行ってくれたんですが、このとき(小6(5)〜中3くらいまでですかね)の私は、とにかく街行く人々が「私のことが嫌いなんじゃないか」と思っていそうで怖かったです。


今思えば、私の人生の中でこの時期が一番こころが堪えていたんじゃないかと思います。


自分の身の回りの準備ができなくなっていたこともそうですし、
今じゃ信じられないですが、「この世は私のことを嫌うようにプログラミングされてるんだ」「(通りすがっただけの知らない人に対して)なんでこの人も私のことが嫌いなんだろう」と本気で思ってましたもん。


身内との関係性をうまく築けなくなっていったのもこの時期からです。
いとこや親戚のおじさんおばさんとは、コロナ前まで年2で会っていたんですけど(多くない?)、私のいじめの時期から、親戚とですら上手く話せなくなっていき、次第に親戚の集まりが苦痛になっていきました。気を遣われてるのがわかっていたし、それが「話しづらい子扱い」なことに気づいていたので。


父は正直浮かばないですが、母はストレスが溜まると2階に上がって壁を殴るようになったり、今までも干渉的だったのがどんどん過干渉に繋がっていきました。逆に毎日喧嘩していた弟とは、ほぼほぼ喋らなくなりました。

あとこれは私が高校生のときまで引っかかっていたことなんですが、私を連れて外出に行くとき、いつも玄関じゃなくて裏の庭からの出入りだったんです。そのとき私は「ママは私の存在を近所に知られたくないと思ってるんだ」と思い、母に対して疑心暗鬼となっていました。
今思えば、ご近所付き合いとか色々あったんだろうなと思いますけどね。



まあこんな小学校生活を受けたもんで、「地元の公立中には行きたくない」という気持ちが強くなりました。当たり前ですよ地元の中学行ったら「あと3年間不登校だドン!」みたいなもんなんで。


というわけでせっせと中学受験の勉強をし、偏差値なんてどうでもいいから知り合いがいなさそうな東京の中高一貫を受けました。


見事に第一志望には合格し(倍率低かったみたいだけど)、私は地元から逃げるようにして、東京の中高一貫校へ行くのでした。


続く⭐︎



(あとがき)
これはあくまで私のエピソードトークであって、決して「暗い人はいじめられる」というものを正当化させているわけではないのでご注意を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?