『フレイザー報告書』こぼれ話(12)

引用は適宜省略している。また、[ ]カッコ内は訳者による補筆である。

発言者一覧

○ソン・ソングン……サンフランシスコ湾岸地域向け韓国語新聞『コリア・ジャーナル』の元発行人兼編集者。韓国系アメリカ人。
○チュン・テポン……ニューヨーク生命保険会社の代理人。韓国系アメリカ人。

○ドナルド・M・フレイザー……下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会委員長
○エドワード・J・ダーウィンスキー……同小委員会委員

駐米韓国領事による嫌がらせ

 前回、1974年5月にサンフランシスコでの金大中(キム・デジュン)講演会を、韓国政府が妨害しようとした事件を取り上げた。その際、この事件を取り上げたサンフランシスコ地域向け新聞『コリア・ジャーナル』を、サンフランシスコ韓国総領事館は目の敵にした。

 フレイザー:この事件を韓国政府関係者のせいにする記事を『コリア・ジャーナル』に掲載しましたか?
 ソン:はい。
 フレイザー:その記事の結果として、何らかの形で脅迫や嫌がらせを受けましたか?
 ソン:わかりません、脅しと言うべきかそうではないのか。数日後、私たちのコミュニティは、大韓航空が後援する集会を開きました。もちろん韓国総領事も招待してくれましたし、私も招待してくれました。その時、それまで私にとても親切だったユン[・チャン]総領事がマイクを引いてこう言いました。「このまま新聞に書き続けますか?」彼はとても怒っていました。
 フレイザー:でも、それ以上はなかった。彼はあなたへそう述べたのですか?
 ソン:はい、それだけです。私へ直に。 私の編集者であるキム・ドンオクは、身元不明の人物から嫌がらせの電話が数回あったと私に言いました。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 フレイザー:貴社の従業員は、あなたの新聞のために働いた結果、嫌がらせを受けましたか?
 ソン:私の編集者が嫌がらせを受けました。
 フレイザー:それはどのように起こったのですか?
 ソン:そのほとんどは電話でした。 ある時、イ・ミンヒは彼を殴りそうになりましたが、友達が彼を取り囲んだので彼は怪我をしませんでした。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 イ・ミンヒ、またアンタか……。キム・ドンオクは、『こぼれ話』(1)で触れたサンフランシスコ在留韓国人協会の会長・副会長選挙で、元KAPA(韓美政治協会)事務局長だった金容伯(キム・ヨンベク)会長候補と対で副会長候補となった人である。

 フレイザー:1974年8月、サンフランシスコのビジネスマンであるチュン・テポン氏は、ビジネス上の理由から、あなたの新聞に広告を掲載するのをやめたいと言いました。
 ソン:はい。
 ︙
 フレイザー:チュン氏は後になって、あなたの新聞の反政府姿勢のために、リム・マンソン氏から広告を撤回するよう圧力をかけられたとあなたに話しましたか?
 ソン:その時、チュン氏は誰が圧力をかけたのか教えてくれませんでしたが、数年後の1976年、リム・マンソン領事から圧力を受けたと語りました。
 フレイザー:彼は数年後にあなたに言いましたか?
 ソン:二年後です。
 フレイザー:誰があなたに圧力をかけたかを?
 ソン:はい。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 この件については後で別立てで紹介する。

 フレイザー:昨日の公聴会で金相根(キム・サンクン)が確認したリストで、リム・マンソンは合衆国に駐在するKCIA職員として特定されていることに注意する必要があると思います【註:前日の1978年6月6日、元駐米韓国大使館職員・金相根が公聴会で証言している】。さて、ソンさん。リム・マンソンがあなたの新聞に他の人が広告を掲載するのを阻止しようとしていることに気付きましたか?
 ソン:幾度かあります。ある事件はリム領事がサンフランシスコに来る前に起こり、ペ[・ヨンシク]副領事はサンフランシスコとロサンゼルスの両方を支配していました。当時、大韓航空の支店長イ・ウンヒョンが私の[父が牧師をしているサンフランシスコ韓国合同メソジスト]教会の信者でした。教会で彼は私に、大韓航空が私の新聞に広告を出すと約束したのに、ペ副領事が私の新聞に広告を載せないように命じたので、残念ながら私の新聞に広告を載せることができなかったと言いました。
 私は通常、契約に基づいて広告を打つことはありませんでした。通常は、友人としての口頭での合意でした。私は彼に 「あなたの立場はわかります。喜んで広告の撤回を受け入れましょう」と言いました。第4号の後に彼の広告を撤回しました。
 フレイザー:リムからの圧力の結果として、他の広告主は『コリア・ジャーナル』での広告を停止しましたか?
 ソン:はい。チュン氏はリムから何度か圧力をかけられました。チュンは私に彼の広告を撤回するように頼みました。彼はまた、友人として私に、広告費を支払うつもりであるが、新聞に広告を掲載するつもりはないと言いました。
 別のケースでは、リム領事から「『コリア・ジャーナル』であなたの広告を見ましたよ」と告げられた、と誰かが私に言いました。リムはそれ以外の言葉には言及しませんでしたが、それは彼にメッセージを与えました。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 総領事館の矛先はソン氏本人にも向けられる。

 フレイザー:最初の脅迫はいつですか?
 ソン:それは1974年のことです。
 フレイザー:どのように受け取りましたか?
 ソン:電話で受け取りました。
 フレイザー:発信者の身元は確認されましたか?
 ソン:彼は自身をキム・チスと名乗りました。最初、彼は身元を明かしませんでした。私は何度か彼に 「あなたの名前は?」と尋ねました。そしてキム・チス氏と名乗りました。
 フレイザー:キム・チス氏をご存知ですか?
 ソン:私は彼を知りませんでした。彼は自分自身を「私の新聞の読者」と名乗りました。メーリングリストを見てみました。キム・チスさんは見つかりませんでした。韓国人名簿で韓国人住民の名前を調べてみました。彼の名前は見つかりませんでした。ベイエリアの電話帳を全部調べましたが、彼の名前は見つかりませんでした。
 フレイザー:キム・チスと名乗る人物の声を認識できると思いましたか?
 ソン:はい。
 フレイザー:誰の声のように思えましたか?
 ソン:リム・マンソン領事だったと思います。
 フレイザー:その人物は何て言いました?
 ソン:彼は「貴様は朴政権に反対している。貴様は朴政権を批判している。朴政権を批判する連中は共産主義者だ」と言いました。私は共産主義者ではありません。それから彼は「来週の日曜日までに貴様を殺すつもりだ」と言ったが、幸いなことに彼は私を殺しませんでした。
 ︙
 ダーウィンスキー:それから彼は再び電話をかけましたか?
 ソン:いいえ。
 ダーウィンスキー:1回だけ?
 ソン:1回でした。
 ︙
 フレイザー:他にもそのような電話を受けましたか?
 ソン:私はかなり頻繁にそれらを受け取りましたが、韓国語で「私はあなたを殺します」は英語ほど深刻ではありません。人を侮辱したり非難したりするだけです。それは十分承知していますが、今回警察に通報したのは、それがリム領事の声だと確信したのと、彼が「日曜までに殺してやる」と私に言った際、彼の電話の裏には何か意図があるような気がしたからです。だから通報しました。
 フレイザー:それで警察に電話したのですか?
 ソン:はい。電話の直後にデイリー市警察とFBIに電話しました。
 フレイザー:誰がこれらの他の電話をしたか知っていますか?
 ソン:他の電話を誰がかけたかはわかりません。
 フレイザー:それらの通話中、何を言われましたか? あなたはすでに私たちに話しましたか?
 ソン:はい。
 ダーウィンスキー:あなたが警察とFBIに通報した後、警察またはFBIは状況を調査しましたか? 彼らは調査を続けましたか?
 ソン:彼らが何をしたかはわかりません。数年後、私が別の脅迫を警察に通報したとき、彼らは私への嫌がらせを以前に記録したと言ってました。
 ダーウィンスキー:サンフランシスコ市警察?
 ソン:デーリー市警察とサンフランシスコ市警察です。
 フレイザー:また、手紙で脅迫を受けましたか?
 ソン:はい。
 フレイザー:手紙の内容は?
 ソン:ありとあらゆる侮辱的な言葉に加えて「お前を殺す」です。
 フレイザー:重大な脅威となるような言い回しや記述がありましたか?
 ソン:ある意味では ー それはあなたがそれをどのように解釈するかによりますが ー ある意味でそれは侮辱的であり、おそらく嫌がらせです。その時点で重大ではないと判断したので、警察には通報しませんでした。
 ︙
 フレイザー:最後に電話や手紙でそのような脅迫を受けたのはいつですか?
 ソン:その手紙が最後の手紙だと思います。
 フレイザー:それはいつ頃からですか?
 ソン:1976年、1976年10月、そのようなものです。切手を貼った封筒と手紙を持っています。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 長年の嫌がらせ行為によって、彼は新聞事業を止めざるを得なくなる。

 フレイザー:1976 年に『コリア・ジャーナル』の発行を中止されたとのことですが、それでよろしいですか?
 ソン:はい。
 フレイザー:なぜ刊行をやめたのですか?
 ソン:KCIA による私の生活への嫌がらせと、私の広告クライアントへの嫌がらせのためです。それは総領事館と私との間の公然たる戦いでした。それが新聞やテレビで報道されたので、人々は私の新聞に広告を出すことを恐れるようになりました。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 『こぼれ話』(1)では、サンフランシスコ在留韓国人協会の会長・副会長選挙で、KCIAが推していたキム・ギョンハ候補らを勝たせるべく、対立候補への嫌がらせと選挙不正をやったこと、投票前日深夜まで選挙工作をしていたリム・マンソン領事をサンフランシスコ韓国総領事館前で張っていた『コリア・ジャーナル』発行人のソン・ソングンが、リム領事の車に轢き殺されそうになった件を取り上げた。リム領事がソン・ソングンを狙う理由は、韓国政府が選挙に介入していることを表沙汰にされるのを嫌ったのはあるが、先述した通り、金大中演説妨害事件を報道されたのをリム領事が逆恨みしていたのが伏線としてあったのである。

“遺言”

 ところで、『コリア・ジャーナル』への広告掲載を断ったビジネスマン、チュン・テポンの名前には見覚えがある。サンフランシスコ在留韓国人協会の会長・副会長選挙にて、KCIAが推していたキム・ギョンハ候補陣営の選対本部長をしていた人だ。

 ソン:当時、リム領事の情報提供者でした。彼はリム領事と非常に密接に協力しました。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 だが、一方でチュンとソンは友情で結ばれていた。

 サンフランシスコの在米韓国人共同体に18年間滞在している間、私はこの国に到着して間もない1964年に会って以来、ソン・ソングン氏をとてもよく知るようになりました。

小委員会スタッフに対するチュン・テポンの宣誓陳述書(1978年5月25日付)

 後に触れるチュンがソンに語った証言テープでも「僕が君と肝胆相照らす仲」だ、とまで言っている人である。二人の長年の交友関係を韓国領事館やKCIAが知らなかったとは思えないのだが、韓国政府が推す候補を、批判的に報道するであろう新聞発行人と近しい人物を、なぜ選対本部長にしたのだろうか。

 件の暗殺未遂から半年以上経った1976年11月。新聞廃刊後にその印刷機を転用したのだろうか、ソンは印刷会社を営んでいたが……

 ソン:チュン氏のオフィスは私の印刷会社から数ブロックのところにあります。ある日、彼が私の店に来ました。私は彼を夕食に連れて行きました。彼は長い間サンフランシスコに住んでいます。 彼は私のために幾度か働きました。彼は「気をつけて、彼らはあなたに陰謀を企てている」と言いました。とても深刻そうでした。私は彼に、私たちの会話を録音したいので、私の事務所へ行ってテープに録音してみないかと話しました。すると彼は自分の言葉を録音するのに同意すると語りました。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 そのテープ内容の書き起こしを見てみよう。

 ソン:(今晩、)先ほどあなたはリム領事(韓国総領事館に駐在するリム・マンソン)やキム・ソクハ氏と、僕を暗殺する計画について話し合ったと僕へおっしゃいましたね。あなたたち3人以外にだれか出席しました?
 チュン:いや。話し合いは3月6日の選挙(サンフランシスコ・ベイエリア韓米協会会長)の2、3日前に、イ・ドンウン氏のアパートで行われた。1976年3月3日か4日の夕方だった。出席者はリム領事と僕、そしてキム・ソクハ氏だけだった。(リム領事)は、ロサンゼルスからやって来た或る男の運転する車に、ソン・ソングン氏を轢かせて暗殺する計画があったが、いくつかの点で計画が中止されたと言ってた。だけど、同席していたキム・ソクハ氏は、「この件は私に任せてください。私にはシアトルに住んでる “弟” がいて、いつも私に従ってくれます。私は弟にヤツを車で轢き殺させます」 僕は連中がこの計画について話しあっているのを聞いてたよ。僕の知る限り、1、2年前にも君を暗殺する計画があったが、その計画も何らかの理由でキャンセルされた。
 ソン:シアトルからやって来たのは、確かにチョさんだっておっしゃりましたか?
 チュン:ああ、チョさんだった。 彼は黒帯8段の空手の達人で、シアトルに空手スタジオを持ってるそうだ。
 ソン:彼とキム・ソクハ氏の間に何か連絡があったかご存知ないですか?
 チュン:実の兄弟のように、とても親密な関係にあることを僕は知ってる。彼らはお互いに連絡を取り合っていて、(チョ)が過去に何度かベイエリアを訪れたことも知ってる。頭はからっきしだが、キム・ソクハ氏には血の兄弟のような親近感を抱いており、キムのために命を賭けても構わないほどだ。
 ソン:投票日の前日、総領事館の前で僕が写真を撮っているのを見つけたとき、(リム領事は)車で私を轢き殺すつもりだったんですか? 
 チュン:うん、僕は議論を覚えてる。(リム領事は)君を轢き殺そうとしたが…… (音声不明瞭)
 ソン:(リム領事)は正確には何と言ってました?
 チュン:彼の正確な発言は、君が写真を撮っているのを見て、君を轢き殺そうと車を飛ばした、いうものだった。でも、君はあまりにも速く逃げたので、彼は君を攻撃することが出来なかった。(リム領事は、)もし彼が君を捕まえられたら、彼は君を殺しただろう、と言ってたよ。
 ソン:リム領事は直にその発言をしたんですか?
 チュン:うん 。彼は直に言ったし、僕は直にそれを聞いた。

チュン・テポンとソン・ソングンの会話録音(1976年11月18日付)

 キム・ソクハはキム・ギョンハ候補の実の兄弟である。
 ソン暗殺は、実際に行われた2、3日前に計画されていたのだ。ところが実行する前、偶発的に6日、リム理事が自ら轢き殺そうとし、かつソンが上手く回避したため、未遂で終わったわけだ。しかし、脳筋な義兄弟に殺人を依頼しようとはマンガか?!

 そして、今度はチュン・テポンがKCIAに狙われることになる。

 ソン:(キム・ギョンハは)あなたを訴えるつもりだったんですか? そしてKCIA?
 チュン:うん。KCIA……
 ソン:彼らはどうするつもりだったんでしょう?
 チュン:彼らがやろうとしてたのは、僕がアメリカ市民であるにもかかわらず、僕が韓国を訪れたら、僕を逮捕拘留することだった。次いで、(韓国にいる)僕の家族へ莫大な税金を課して、彼らは僕を連中の前にひざまずかせるつもりだった。彼らが言っていたのは、KCIAを使って僕を彼らの前にひざまずかせるつもりだったということ。
 ソン:誰がそうしたことを言ってたんですか?
 チュン:キム・ソクハ氏が電話で直に言ってきた。
 ソン:それっていつ頃?
 チュン:ふた月かひと月半前のこと。9月中旬だった。
 ソン:僕の新聞に掲載されたあなたの広告の問題のために、僕が生きるか死ぬかという問題が最初に持ち上がったのは1974年だったことを思い出します。
 チュン:1974年だった。
 ソン:ええ、チュンさんはその際は誰だかあなたは教えてくれなかった。
 チュン:うん、しなかった。
 ソン:(広告の問題について)あなたの話を聞いた後、リム領事に電話して、なぜ僕の新聞に広告を出した人たちに嫌がらせをしているのか尋ねました。でも、リム領事にはあなたの名前を出しませんでした。
 チュン:出さなかったんだ。
 ソン:僕はただ「私の広告主」とだけ言いました。その晩、あなたは僕に電話をかけ直して、なぜリム領事にそのことを話したのかと尋ねましたね。
 チュン:そう。
 ソン:あれは一体全体何だったんですか?
 チュン:あれはすべて真実だよ。僕は君に言った、「もう君の新聞に僕の広告を載せないでくれ。さもなきゃ僕が掲載を取り消す」と。僕が君と肝胆相照らす仲なのは、僕たちが長年米国で一緒に暮らしてきたからだ。君の問題がますます悪化すると、僕の事業も傷つくのではないかと心配したのさ。だから、僕が君と論じ君を罵ったとき、僕の最大の関心は自分の事業を守ることだった。でも、僕が(今夜)先に君に言ったことはすべて真実だよ。リム領事のために、僕は君の新聞での僕の広告を終了するつもりだった。偶然かどうかはともかく、韓国政府関係者に販売した保険はすべて解約された。ついでに、韓国総領事館関係者に売った保険も全てキャンセルされたよ。だから、重圧を感じていたのは事実さ。当時の僕は、事業の都合上そのように振る舞った。いま、(キム兄弟は)KCIAを利用し、僕が韓国に行けば逮捕され、僕の家族を破壊するぞとほのめかして、僕を脅迫している。僕は米国市民であり、韓国に戻って住みたいとは思ってないけど、彼らは僕の命を脅かし続けている。だから、これにより記録が明確になり、何かが起こった場合に誰が僕を殺したのか、誰が君を殺したのかを人々が知ることができるようになることを願って、僕は君に真実をまるごと伝えるよ。
 ソン:ありがとう。

チュン・テポンとソン・ソングンの会話録音(1976年11月18日付)

 キム・ギョンハが、なぜチュン・テポンを訴えようとしたのかはわからない。考えられるのは、対象地域外の人々を動員し投票させた、選挙不正の情報を対立候補側に漏らした疑いだろうか(『こぼれ話』(1)参照)。
 チュン・テポンが、思い余ってソン・ソングンのもとを訪ねたのはそんなときであった。生命の危険に晒されているお互いがテープに記録したのは、万一殺されたときの犯人の告発である。これはもはや悲壮な決意のこもった“遺言”と言えよう。

 一般市民にこのような“遺言”を残すことを強いる、朴正煕政権の恐怖政治は決して忘却されてはならないのだ。

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