『フレイザー報告書』こぼれ話(11)

引用は適宜省略している。また、[ ]カッコ内は訳者による補筆である。

発言者一覧

○ソン・ソングン……サンフランシスコ湾岸地域向け韓国語新聞『コリア・ジャーナル』の元発行人兼編集者。韓国系アメリカ人。
○イ・ミンヒ……事件当時テコンドー指導者。元サンフランシスコ在留韓国人協会会長。
○金相根(キム・サンクン)……元在ワシントン韓国大使館参事官。1974年当時一等書記官。

○ドナルド・M・フレイザー……下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会委員長
○エドワード・J・ダーウィンスキー……同小委員会委員

○上田耕一郎……参議院議員(日本共産党)
○土井たか子……衆議院議員(日本社会党)

金大中講演会妨害事件

 今回取り上げる話はコレ。

 ソン:1973年5月18日、金大中氏は、韓国系アメリカ人の政治学者グループの後援を受けて、サンフランシスコの国際学生センターで講演することになっていました。……ロサンゼルスの韓国総領事館で副領事を務めたKCIAのエージェントである ぺ・ヨンシク氏は、ロサンゼルスから10人以上のチンピラを引き連れて現れました。ペ副領事に加えて、在サンフランシスコ韓国総領事館の領事であるキム・ドンチン氏と、サンフランシスコ地域で有名な空手【訳註:テコンドー】指導者であるイ・ミンヒ氏と彼の空手生徒数名が参加しました。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 政敵・朴正煕(パク・チョンヒ)大統領による「十月維新」(1972年10月17日)は、前年5月の暗殺未遂による怪我の治療で来日していた金大中(キム・デジュン)に亡命生活を余儀なくしたが、それでも日米を行き来しつつ、国外から朴の強権政治を批判し続けた。

 フレイザー:さて、あなたは冒頭陳述で、1973年3月にサンフランシスコで開催された金大中の集会に言及しました【註】。この集会は、金大中の秘書であるイ・グンパルがあなたの父親にその集会を手配するよう要請したことによって設定されたのですか?
 ソン:はい 。イ氏は以前、サンフランシスコ総領事館に勤務していました。
 フレイザー:1973年3月当時、ユン・チャン氏が韓国総領事でしたか?
 ソン:はい 。
 フレイザー:サンフランシスコにある?
 ソン:はい 。
 フレイザー:ユンさんはご家族の友達でしたか?
 ソン:私たちはとても友好的な関係にありました。
 フレイザー:ユン総領事は金大中の演説予定についてあなたに電話をかけましたか?
 ソン:はい 。
 フレイザー:電話してきた際、彼はあなたに何と言いましたか?
 ソン:彼は私に何度か電話をかけてきましたが、彼らのほとんどは友好的でした。ある日、彼は私に「金大中氏のためにその集会を手配するのをやめなさい」と言いました。彼は私に「総領事として、金大中氏の手配をすぐに止めてください」と言いました。彼は、金大中氏がこの地域でいかなる集会もおこなうことは許可しないと言いました。
 フレイザー:彼はあなたに手配をやめてほしかったのですか?
 ソン:はい 。
 フレイザー:金大中氏がサンフランシスコで話すことを許可されていないと彼が言ったからですか?
 ソン:はい、総領事はそうおっしゃいました。
 フレイザー:その地域では?
 ソン:はい 。
 フレイザー:ユン氏が金大中の発言を止める権利に疑問を呈しましたか?
 ソン:私は彼に「総領事としてそうおっしゃるのですか?」と尋ねました。彼はそうだ、とおっしゃいました。それで私は彼に告げました。「 あなたは外国から来た外交官です。あなたには私に命令する権利はありません。私はあなたを朴政権の総領事ではなく、私の祖国の総領事と認識しています」
 フレイザー:スピーチのキャンセルを拒否したのですか?
 ソン:キャンセルを断りました。
 フレイザー:あなたが金氏を止めることを拒否した後、ユン[総]領事はあなたの父親にそれを止めるよう説得しようとしましたか?
 ソン:はい 。
 フレイザー:あなたのお父さんは集会を止めることを拒否しましたか?
 ソン:はい 。父は拒否しました。
 フレイザー:集会はどこで開催されましたか?
 ソン:サンフランシスコ韓国合同メソジスト教会牧師館にある父の居間です。
 フレイザー:それが金大中の出会いだった?
 ソン:はい 。
【註】後に出るイ・ミンヒの陳述書(後述)と当時の状況を鑑みても、どうもこの牧師館での集会も5月の話と思われる(フレイザー氏の間違い)。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 一般家屋の居間と変わらないであろう空間にどれだけの人数が入るというのか。それでも、韓国領事館はこのささやかな政治集会を止めるよう圧力をかけたのだ。

 そして件の5月、領事館は実力行使に出る。

 フレイザー:1973年5月18日、金大中がサンフランシスコの国際センターで講演を行ったときに、学生団体が手配した別の集会が開催されたのでしょうか?
 ソン:はい 。
 フレイザー:その時あなたは出席していましたか?
 ソン:はい 。
 フレイザー:どのような立場で出席されましたか?
 ソン:『コリア・ジャーナル』の記者としてです。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 この国際(学生)センターがあったというオーク通り50番地は、2006年にサンフランシスコ音楽院の施設、アン・ゲッティ教育センターとなって現存していない。
 『コリア・ジャーナル』紙についてはソン氏自身の言葉を引用しよう。

 ソン:1973年5月、私は韓国語による隔週刊の地元紙『コリア・ジャーナル』の発行を開始し、その編集記者でもありました。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 フレイザー:あなたの新聞で取った一般的な編集方針と、一般的な政治的立場を述べていただけますか?
 ソン:はい。政治的な側面では、1972年に憲法が改正されて以来、私は民主的な方法で国を運営していない朴政権を信じることができなかったので、朴政権を批判しました。また、私は米国でのKCIAの活動に反対しました。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 さて、証言を先に進めよう。この事件のもう一人の重要人物であるイ・ミンヒの登場である。

 フレイザー:イ・ミンヒ氏が誰だかご存知ですか?
 ソン:はい 。彼は私の友人でした。彼とは同じ高校で勉強しました。彼はひとつ上の学年でした。彼は、サンフランシスコ地域の在留韓国人協会の元会長です。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 サンフランシスコ在留韓国人協会の件についてもう少し。

 私、イ・ミンヒは大韓民国の市民であり、1971年から1972年までと、1974年から1976年まで、サンフランシスコ地域在留韓国人協会の会長を務めました。

フレイザー委員会に提出されたイ・ミンヒによる宣誓陳述書(1978年5月30日付)

 さて、『こぼれ話』(1)で書いた、韓米政治協会(KAPA)の事務局長だった金容伯(キム・ヨンベク)が選挙妨害を受けた話を覚えておられるだろうか? まさにその選挙の焦点だったサンフランシスコ在留韓国人協会の前会長がイだったのだ。

 フレイザー:昨日、この小委員会での証言で、金相根は、ロサンゼルスに駐在する副領事であるぺ・ヨンシク氏をKCIAの職員として特定しました【註:前日の1978年6月6日、元駐米韓国大使館職員・金相根が公聴会で証言している】。ペさんは国際センターでの集会に出席しましたか?
 ソン:はい、委員長。
 フレイザー:その集会にはイ・ミンヒ氏も同席したと理解しています
 ソン:はい 。
 フレイザー:彼はペ・ヨンシク[副]領事にあなたを紹介しましたか?
 ソン:はい、彼はロサンゼルスの副領事であるペ・ヨンシクを紹介してくれました。
 フレイザー:集会が始まる前、茶色い紙袋を持った男性らの一行が国際センターにやって来ましたか?
 ソン:はい 。
 フレイザー:これらの男性の中に誰か見覚えがありましたか?
 ソン:はい 。
 フレイザー:全員あるいはそのうちの何人かに?
 ソン:何人かにです。
 フレイザー:あなたが国際センターに入ったとき、あなたはこれらの男性の一人と話をしましたか?
 ソン:はい 。
 フレイザー:彼はなんと言ったのですか?
 ソン:彼は私に今晩何かが起こると言いました。彼らは演壇で金大中氏に卵とケチャップを投げる計画を立てていました。
 フレイザー:その男たちが卵とケチャップを投げにホール2階のバルコニーへ行くのを見ましたか?
 ソン:はい 。
 フレイザー:男たちは実際にそれらの品物を使用しましたか?
 ソン:いいえ。誰かが彼らは卵とケチャップを持っていると施設の守衛に報告したため、卵とケチャップを使用できませんでした。それで、金氏がホールに入る前に守衛がそれらの品物を持って行ったのです。
 フレイザー:守衛が品物を持ち去った?
 ソン:はい 。
 ダーウィンスキー:これら守衛たちは誰でしたか?
 ソン:はい 。制服を着た本物の守衛でした。
 ダーウィンスキー:正式な施設の守衛ですって? 彼らはあなたや後援者グループが雇った警備員ではなかったのですか? 受付係あるいは警護の人たちなのでは?
 ソン:とにかく、今回は観察しなかったので、彼らがどこから来たのか正確にはわかりませんでした。とにかく、彼らはピストルと、バッジの付いた制服を着ていました。
 フレイザー:キム・サンドン前ソウル市長の演説の中で、イ・ミンヒは何をしたのですか?
 ソン:部屋の後ろに立っていたイ・ミンヒは叫び続けていました。彼が何を言ったか思い出せませんが、彼はそこで大きな音を立て、何度か叫びました。
 フレイザー:演説を進めるのを難しくするのに十分でしたか?
 ソン:はい。キム・サンドン氏は演説を2、3回中断しました。
 フレイザー:金大中が話し始めたとき、イ氏は何をしましたか?
 ソン:金大中氏が舞台に立つと、舞台に近づきました。金大中氏が話し始めると、「朴大統領を批判するな」と叫びました。それからイは金大中氏に近づこうとしました。金大中は当時、個人的にボディーガードを4人ほど連れていました。彼らはイ氏から金氏をかばい、イ氏を押し返しました。
 フレイザー:それから、どうなりました?
 ソン:それから突然、部屋全体が怒鳴り声と野次で満たされました。私は騒動を起こした人々の何人かはロサンゼルス出身だったと思います。何人かはイ氏の友達でした。中断の様子を写した写真があります。こちらがイ・ミンヒ氏で、こちらは金氏のボディガードです。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)
当該事件を扱った『コリア・ジャーナル』の記事(1973年5月21日発行)。
写真左・押収品の卵とケチャップ。
写真右上・壇上の金大中へ寄らんとするイ・ミンヒ。 
写真右下・警察により会場から連れ出されるイ・ミンヒ。

 フレイザー:その時の写真ですか?
 ソン:はい。
 フレイザー:誰が撮ったのですか?
 ソン:写真は、KCIAに雇われた人物によって撮影されました。
 フレイザー:どうやって写真を手に入れましたか?
 ソン:カメラマンが学校の先輩だったので。私は彼を説得して写真を見せてもらいました。
 ダーウィンスキー:言い換えれば、あなたはKCIAの裏をかいたのですか?
 ソン:はい。私は長い間サンフランシスコに住んでいたので、彼らは全て私の友達であり、学校の友達であり、家族の友達でした。
 ダーウィンスキー:要するに、状況をまとめると、金大中が政府を批判する演説をするということは、事前に宣伝されていたのでしょうから、聴衆の中には政府支持者も反政府支持者もいたのは間違いないですよね?
 ソン:はい。
 ダーウィンスキー:あなたが見たのは、発言者の立場を支持する人々だけではない、さまざまな聴衆だったと?
 ソン:はい、双方参加していました。領事、副領事、記者など、いろいろな方がいました。
 フレイザー:次に何が起こったのですか?
 ソン:それから突然、10人以上のサンフランシスコ警察が会場にやって来て、イ・ミンヒ氏を連れ去りました。 新聞には、彼が警察によって連れ去られている様子を示す写真が掲載されています。
 フレイザー:警察はイ・ミンヒを連れ去った?
 ソン:はい。
 フレイザー:では、ペ・ヨンシクは何をしたのですか?
 ソン:彼は自分は「大韓民国の外交官だ。この集会は韓国人のためのものであり、これについては我々が自分たちで処理する」と言いました。
 フレイザー:それは彼が警察に出した声明ですか?
 ソン:はい。彼は身分証明書を取り出して警察に見せ、「私は大韓民国の外交官だ」と言ったのです。
 フレイザー:カードを見せた後、彼は 「私たちは私たち自身の問題を処理します」と警察に言ったのですか?
 ソン:はい。
 フレイザー:警察はこの要請にどう対応しましたか?
 ソン:彼らは一言も発しませんでした。彼らはイ・ミンヒ氏を排除しました。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 この騒動の背後にいた黒幕も判っている。

 フレイザー:この集会の間、キム・ドンチン領事は会議場から電話をかけていましたか?
 ソン:電話はロビーの右側にありました。キム・ドンチン領事と、イ氏の信奉者と思われる何人かの人々は電話を占有し続けました。ロビーの反対側にある2台の公衆電話も彼らによって占有されていました。
 フレイザー:キム・ドンチンは誰に電話していましたか? ご存知であれば。
 ソン:当時は知りませんでしたが、事件の後、新聞記者の一人はワシントンD.C.の韓国大使館公使だった李相鎬(イ・サンホ)氏が、金大中氏の宿泊していたヒルトン・ホテルにいる、と私に話してくれました。そこにはユン・チャンがいて、韓国の役人も何人かいました。 おそらく彼らは何が起きたかを李公使に報告したのでしょう。
 フレイザー:あなたは、サンフランシスコ総領事館のキム・ドンチンが電話をかけていたと言いましたが、ヒルトンにいた李相鎬とユン・チャン総領事に電話していたことは後で知ったのですか?
 ソン:はい。
 フレイザー:集会後、イ・ミンヒ氏は金大中氏に電話して脅迫しましたか?
 ソン:翌日、私には金大中氏とホテルでインタビューを受けてくれる約束がありました。その際、金大中氏は私に「イ氏が私に電話を掛けてきて脅迫した」とおっしゃいました。
 フレイザー:脅迫の中身は?
 ソン:彼はそれ以上の詳細を与えてくれませんでした。彼はイ氏に脅されたとだけ言いました。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月7日)

 『こぼれ話』(8)で少しだけ触れたKCIAワシントン支局長・李相鎬。まさか同じホテルにいたとは驚きである。上田議員が述べているように(後述)、李相鎬は「西ドイツ拉致事件」=東ベルリン事件(駐東ベルリン北朝鮮大使館に接触したとされる、主に西ドイツに留学していた韓国人の学者・学生等多数を、1967年にスパイ容疑で逮捕した事件。この際、西ドイツと犯人引渡し協定を結んでいなかった韓国は、KCIA職員を使って西ドイツから不法に韓国へ連行したことから、西ドイツとの間で外交問題化した)の実行責任者と言われている人物である。

 ところで、騒ぎを起こした当のイ・ミンヒはこの事件に何を思っていたのか。イは1974年11月に合衆国連邦捜査局(FBI)の特別調査官から、1978年5月にフレイザー委員会スタッフからの聴取に応じている。いずれも彼の主張は同じだが、より詳しく述べている78年の声明を引用してみよう。

 1973年5月初旬、私はサンフランシスコの「カリフォルニア・ボイス・オブ・コリア・ブロードキャスティング」の会長として、サンフランシスコ[韓国]合同メソジスト教会にあるソン・チョンユル牧師の家で、金大中(キム・デジュン)氏による時事問題に関する討論会に出席しました。
 韓国のマスコミ関係者を招いた討論会で、講演者として出席した前韓国大統領候補・金大中氏の演説を聞きました。尊敬する金氏の演説内容が根拠のない馬鹿げた嘘ばかりだったことに、私は大いに失望しました。その日、金大中氏は、10人以上の報道陣と共に座り、次のように述べました。(1) 民主共和党【訳註:朴正煕政権の与党】政権は彼を暗殺するつもりだった。 (2) 病気療養のため日本へ滞在中に戒厳令が発令され、渡米した。(3) 在米韓国人は朴正熙大統領の独裁が続く限り米国政府と議会に圧力をかけ、米国の軍事的および経済的援助を断つべきである。そして、(4) 朝鮮[半島]統一問題では、北朝鮮の提唱する南北連邦制(高麗名義の連邦)に賛辞と支持を表明し、終始反政府声明を出し、国家元首を誹謗中傷しました。私は金氏の発言を聞いて、高潔な韓国在留民を扇動し、これら米国の在留民を彼の政治的道具に変えようとする意図のあることがわかりました。彼の(予定された)時事演説は韓国政府を批判し、韓国社会を分断する傾向があると判断し、演説を中止しなければならないと判断しました。
 1973年5月17日、約150人の在留韓国人が、サンフランシスコのオーク通り50番地にある国際学生センターへ、金大中氏の時事問題に関する演説のため集まりました。しかし、この日の金氏の演説も宋牧師宅での演説と同様、一貫して政府を批判していたので、善良な在留韓国人を嘘の演説で馬鹿にしてはならないと思い、演説の中止を要求しました。

 その日の金氏の演説中、私は「なぜ韓国の元首を中傷するのか」そして「政治的な争いなら、韓国に戻ってそこでやるべきだ。なぜここに来て、高潔な在留韓国人を扇動するのか?」と反対の声を上げました。
 私が金氏の演説を妨げると、すぐに金氏の強力な支持者である5、6人ほどの若者が演壇から私を連れ出し、罵声の応酬となりました。その直後、私はやって来た警察に会場の外に連れ出され、ただちに家へ帰されました。

フレイザー委員会に提出されたイ・ミンヒによる宣誓陳述書(1978年5月30日付)

 権力側を批判するだけで怒り出す者はいつの時代にも居るものだが、イ・ミンヒもそうした部類だったのだろうか。それにしても、イの陳述は78年5月の証言である。イは「嘘」だと言っているが、金大中は実際暗殺されかけ、その結果として(本人の意志とは無関係だが)韓国に戻り、韓国で政治犯として収監され、釈放されたのがイの陳述した僅かふた月前である。命を懸けて政治活動を続けていた金氏に対して恥ずかしくはないのだろうか。

 この妨害事件は2つの波紋を生むことになる。ひとつは同年8月の金大中事件、もうひとつはソン・ソングンの発行する『コリア・ジャーナル』への嫌がらせとしてーー。次回は後者を追っていく。

あなたの偽名はどっちなの?

 『コリアゲート』の重要人物のひとりであるというべき、イ・サンホ韓国大使館公使。実はKCIAワシントン支局長であり、偽名ですらあった。(本名は梁斗元(ヤン・ドゥウォン))。

 さて、〈イ・サンホ〉の漢字表記である。イ公使の元部下である金相根がKCIAワシントン支局員だった時代のことを小委員会スタッフに陳述した手紙が残っている。実は金大中誘拐事件の際、犯行グループとして、イ公使以下3人の駐アメリカ韓国大使館職員も日本にいたのではないか、という疑惑があった。それに対する回答である。

 1973年夏、駐米韓国大使館の李相鎬(イ・サンホ) 公使、崔洪泰(チェ・ホンテ)参事官、朴正一(パク・チョンイル)書記官は、韓国中央情報局本部から一時帰国(出張)とソウル訪問の命令を受けました。……当時、上司と同僚を含む3人がソウルにいたあいだ何が起こったのか、個人的に話を聞いたこともありましたが、金大中氏の拉致とは全く関係がないと感じました。……ただしこの期間中、……そろって米国に不在だったことで、報道陣や一般の関心を集めることとなり、ゆえに報道機関の記事取材対象となったものと私は解釈します。

『韓米関係調査』国際機関小委員会スタッフへの金相根の手紙(1978年6月14日付)

 ここで3人が金大中誘拐事件に関与していたかどうかは詮索しない。「李相鎬」と元部下が書いてある以上、これで決まりと思うだろう。ところが、もうひとつ〈イ・サンホ〉の漢字表記候補が存在するのだ、日本の国会議事録に。

○上田耕一郎君 ……日本にいた韓国大使館員でKCIAの疑いがきわめて強くてこれだけ名前が挙げられている人の人相、風体、写真もまだ全部は知らないと、これで四年間調べたということになるのですか。まことにけしからぬ話だと思います。在日韓国大使館だけでなく、在米韓国大使館のKCIAも日本に来て事件に参加したという疑いがあります。われわれの調査団に対して、アメリカ側のある人々は、次の四人の在米KCIA、すべてアメリカの在米韓国大使館の館員ですけれども、その名前が挙がっております。李相浩公使、本名は梁斗元ですが、崔洪泰参事官、朴正一二等書記官、林奎一大佐、このうち李相浩公使は西ドイツ拉致事件の実行責任者であります。国会で以前これが問題になったときに、朴正一二等書記官については来日しているという答弁がありましたが、この四名について、その後の捜査で、当時事件が起きた前後来日していたことがあったかどうか、これは入国管理局長にお伺いします。
○説明員(吉田長雄君) ただいま御質問の四名のうち、朴正一につきましては、朴正一は一九三七年九月二十四日生まれでございますが、職業欄は外交官でございます。昭和四十八年七月十一日に羽田に入国いたしまして、七月十二日に出国しています。また、同年八月七日に羽田に入国し、八月八日に出国しております。その他の三名につきましては、全部いま電算機に入っておりまして、いま動かしておりますが、きょう午後にしか結果が出ないのであります。
○上田耕一郎君 それでは、結果が出ましたらお知らせ願いたいと思います。

第81回国会 参議院 法務委員 閉会後第1号(1977年9月22日)

 〈李相浩〉は国会議事録上4回登場するが、実は本名のヤン・ドゥウォンの漢字表記〈梁斗元〉が出てくるのは、ネット上で調べた限り此処だけである(上田耕一郎先生有難う御座います!)。
 ちなみに、土井たか子議員が聞いた際は〈李相鎬〉表記である。ただし、この表記は1度きりである(厳密には複数あるがこれ以外は別人)。

○土井委員 ……この金大中氏事件が起こった直前あるいはその直後にもかけてでございますけれども、在米韓国大使館員数名が事件より前に東京に入ってアメリカと韓国に対して電話をかけたというふうな事実があるようであります。このことはすでにあの事件直後の八月二十一日の閣議後の記者会見で当時の田中伊三次法務大臣が半ばお認めになっている向きの御発言もあったやに私たちは記憶をしておるわけでありますが、名前を申し上げますと、ワシントンの二等書記官の朴正一氏、これは事件前日七月に一たん日本に来てソウルに行かれて、ソウルからまた東京に引き返してこられているという方がありますし、孫仁徳、これはニューヨークの領事であります。また、八月一日になると、李相鎬、ワシントン公使ですね。それから林圭一、これは武官です。この方々がワシントンから日本に来られて、そして東京のホテルから韓国やアメリカに対して電話をかけられた、そしていろいろと連絡をとられたということに対して、警察の方ではこの事実に対して認識をされているかどうか、電話の通話料や電話先などについて捜査をされたはずだと思いますけれども、このことに対しての具体的な調査内容がどうなっているか、これが一つであります。

第80回国会 衆議院 外務委員会 第27号(昭和52年7月13日)

 果たして〈李相鎬〉〈李相浩〉どちらが正しい表記だろうか? 金相根が上司の名前を間違えるとも思えないし〈李相鎬〉に軍配を上げたいのだが、どっちにせよ偽名だし……という気はある。

 最後に。お気づきになったであろうか? 「林奎一(圭一)大佐」の名前を。韓国語読みすると〈リム・キュイル〉……そう、「ワシントン反日デモ事件」で、統一教会信者たちデモ隊を載せたトラックを韓国大使館前で止めに入った、あの駐在武官だ(『フレイザー報告書』(和訳第2版)43ページ、および『こぼれ話』(2)(7)に登場)。気づかなかったわ〜迂闊だった‼

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