井上章一日文研所長「太秦語りと幻想のエルサレム」書き起こし

こんにちは、大秦通信社です。
2023年8月1日、われわれは国際日本文化研究センター研究プロジェクト「日本古代史の国際的研究」において行われた井上章一氏による日ユ同祖論の拡散と支持を主張するトンデモ陰謀論の発表に、聞き手として参加してしまいました。
当該研究発表の場において、明確に批判の意を示した方がおられたにもかかわらず、われわれは氏の主張に対して発言を行うことなく会を終えました。
このことは後世、われわれが氏の主張を支持したと理解されても仕方がありません。
当日「抗議の意を表明した」方がおいでであったということは、その場が決して「抗議することができない」場ではなかったということを示します。
なのにわれわれは沈黙のまま会を終えました。
痛恨です。
われわれは自身を強く恥じています。

よってわれわれは冬コミに出ることにしました。
以下の書き起こしは当日の新刊「日ユ同祖論をぶった切る」の三章構成のうちの第二章です。


後述の通り、当該研究発表は参加アカウント者の大半を中国語話者が占めるという異様な構成でした。また、このプロジェクトは個人による寄附講座で、寄附者本人が直接参加していることも特徴です。
仲間内で「徐福が神武天皇になるわけですが…」「初耳です!」などとやっている様子を見て、われわれは率直に「私物化だな」と思いました。

さて、以下の書き起こしはわれわれ大秦通信社の構成員によって、レジュメも参照しつつ当日の記憶とメモをもとに再構築したものです。
そのため、井上章一「太秦語りと幻想のエルサレム」の完全な再現ではありません。
また、われわれが真摯かつ丁寧に再現、整理したことで、ある種の知性と整合性が生まれてしまい、まるで「一理ある」ような雰囲気に仕上がってしまいました。
これは当日の実態とは全く異なります。
深くお詫びいたします。

われわれの誠実な働きにより、万が一にも「隠された真実」に目覚めてしまう方がおいでかもしれません。
いい加減にしてください。
ぜひ以下のサイトを詳読されることを強くお勧めいたします。
とても大好きなので、特に目覚めない予定の方も、ともかく理由なく詳読してにっこりしてください。
こちらのサイト様はわれわれとは全く関係がございませんので、その点、強烈によろしくお願い申し上げます。

『トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編』
「朴斎主頁」 最終確認日2023年12月18日

当日の様子は同8月3日付「由愛@tenjounoao_yume」氏のXアカウントで報告がありましたので、最後に参照できるようにしておきます。
将来、重要な一次史料になるであろうポストを目の当たりにできるということは非常に幸運です。
「由愛@tenjounoao_yume」氏ありがとうございます。
ぜひわれわれの書き起こしを一読のうえ、氏のツイートの内容を参照し、皆様それぞれのお立場で当該研究発表についてお話しください。


井上章一日文研所長「太秦語りと幻想のエルサレム」


 井上章一氏の発表は二〇二三年八月一日、国際日本文化研究センター内の施設からZoom Meeting配信によって行われた。参加は「氏名・所属」を明記しての事前申込みであり、対象は「学生・研究者」である。時刻は午後二時から四時。八月一日は火曜日。平日である。
 当該研究発表の国際日本文化研究センター(以下日文研)での位置づけは次の通り。

 国際日本文化研究センター研究プロジェクト「日本古代史の国際的研究」
 令和五年度 第二回研究会 講師・井上章一「秦氏と幻想のユダヤ人」
 司会・劉建輝

 ただし、発表のタイトルは事前に告知されていた「秦氏と幻想のユダヤ人」から「太秦語りと幻想のエルサレム」に変更されている。この変更は事前配布のレジュメによる。
 よって実態に即し、第二回研究会の内容は左記の通りとする。

 国際日本文化研究センター研究プロジェクト「日本古代史の国際的研究」
 令和五年度 第二回研究会 講師・井上章一「太秦語りと幻想のエルサレム」
 司会・劉建輝

 それぞれ肩書は、井上章一氏は日文研所長、劉建輝氏は同教授。
 以降、国際日本文化研究センター研究プロジェクト「日本古代史の国際的研究」を当該プロジェクト、令和五年度 第二回研究会 講師・井上章一「太秦語りと幻想のエルサレム」を当該研究発表と呼称する。
 また告知画像下部に「国際日本文化研究センター研究プロジェクト『日本古代史の国際的研究』は、株式会社米輸・沖見勝也氏の寄附金によって、運営しております」との但し書きがあることから、当該研究発表は個人の寄附金によるプロジェクトであることがわかる。
 当日の参加者側アカウントは十七とする。
これは当日の参加者のアイコンのうち、表示名が「古代史事務局」や「国際研究推進係」などの日文研側の運営スタッフと思われるものを除いた数である。
当該プロジェクトの寄附者である沖見勝也氏のアカウントは、運営側ではなく参加者側として十七のうちにカウントした。これは沖見勝也氏が「事前に自身が設定した質問を運営側に提出していること」「発表後の質疑が氏の質問への回答から始まること」等から、自身を運営側ではなく参加者として待遇されることを求めているものと理解することによる。後掲のQ1〜3は沖見氏がZoom Meetingのチャット機能を使い、運営側に事前に質問文を送っていたものである。
参加アカウントの数は十七であるが、参加者の実数は三十人前後ではないかと思われる。
これは個人名のアカウントの他に、表示名を「東北師範大學」とするアカウント一件を含むためである。このアカウントは発表中、カメラが常時中継状態になっており、向こうの様子が参加者全体に共有されていた。画面上では会議室のような場所に十人ほどが確認できた。
このアカウントは表示名の通り中華人民共和国吉林省長春市に所在する「東北師範大學」の所属者たちであろう。井上章一氏の発表中、劉建輝氏からアカウントの代表者への話しかけが複数回あった。そのため「東北師範大學」のアカウントを運営側とするか検討したが、劉建輝氏が既知の間柄である同アカウントの人物へ個人的な話しかけを行ったものと判断し、運営側ではなく参加者側とした。
その他の日文研所属者名のアカウントも同様とし、参加者側にカウントした。
以上のことから当日の参加アカウントを十七、参加者数を三十人前後とする。
そのほか当該研究発表の特徴としては、発表者である井上章一氏が日本語を母語としない参加者を意識していたことである。
全十七アカウントのうち、東北師範大學を含めて三アカウントが中国語話者と推測される。そのため、単純に計算して参加者約三十人のうち半数が中国語話者であろう。
一方、井上章一氏によるレジュメは全て日本語であり、氏の手書きの原稿をスキャンしたものである。当該研究発表も全て日本語によるものである。
この条件は日本語を母語としない者にとっては難易度が高い。その点は運営側も認識していたのか、当該研究発表は冒頭「井上章一氏が参加者に非常にゆっくり語りかける」というスタイルで始まった。ただし冒頭のみである。参加者に対する効果のほどは不明だが、当該研究発表において井上章一氏が事前に参加者の属性を把握していたことを示す行動であると理解できるため、記録しておく。
以上のような状況で井上章一日文研所長による研究発表が開始された。

太秦語りと幻想のエルサレム
 本章の内容は当日使用されたレジュメを元に、本稿執筆者を含む当日参加者によるメモおよび当該研究発表終了後当日中に行った検討会で共有された内容によって構成されている。
われわれは当日の録画および録音データを所持していないため、当日の録画や録音による文字起こしによるものではない。これは事前に日文研側からメールで通達された「録音および録画の禁止」に従ったためである。
よって本稿は複数人による修正およびチェックを経たうえで最大限の努力と誠実さをもって構成されたものではあるが、当該研究発表の完全な再現ではないことを申し添えておく。
これは非常に残念なことである。
 そのため、われわれは当該プロジェクトならびに当該研究発表の内容が公開され、より広く、公平なかたちで評価されることを熱烈に要望する。
また、それらが国際日本文化研究センター自身によって適切かつ迅速に実施されることを一切疑わない。

以降は当日使用されたレジュメに沿って井上章一氏の発表内容をまとめたものである。
事前配布のレジュメは井上章一氏の手書き原稿をスキャンしたもので、全八枚である。
レジュメ内での明らかな誤字は修正した。ただし「廃仏廃毀」「バビロンの言語擾乱」「東方へ教宣をむける」「伝導団」などの氏独自の単語表現は誤字とせず、ママとした。太田錦城については氏の表記の通り「大田錦城」とした。
またレジュメに挙げられた参考文献は、「飛鳥昭雄・三神タケル『失われた原始キリスト教徒〈秦氏〉の謎』(一九九五年)」というように、全て「著者名『書名』(出版年)」のみである。そのため、氏が採用した参考文献が「どの本の」「どの部分か」が特定できない。特に複数の形態がある史料の場合、非常に困った。ともかく、主な参考文献は「該当する文献を通読する」というかたちで引用元を特定した。しかしわれわれはそれが氏の示した参考文献と同一なのかを確かめることができない。その旨、断り書きをしておく。
また発表の後半(レジュメ五ページめ)以降は、司会の劉建輝氏が井上章一氏と見解を述べ合う、劉建輝氏が東北師範大学アカウントへ先行研究の有無を確認する、などの場面が出てくる。これらの部分についても誠実な書き起こしを意識した。ただし劉氏から東北師範大學への突発的な質問は中国語で行われたため、内容の聞き取りは大意にとどまる。東北師範大學から劉氏への回答は全て日本語であった。
先述の通り、当該研究発表は井上章一氏が参加者に対して「聞き取りやすく」ゆっくり語りかけるかたちでスタートした。
「日ユ同祖論は日本の学界からは無視されていますが、日本の本屋へ行って棚を見ると、日ユ同祖論について扱った本が、たくさん並んでいます。なので、日ユ同祖論というのは、日本の大衆に広く受け入れられているということが、わかります。日ユ同祖論は日本のポピュラーカルチャーであるということです」
 まず氏は太秦という単語について疑問を投げかける。
「太秦はウズマサと、すなおに読めるのか?」
 氏は「読めない」とし、レジュメの内容へと移ってゆく。

一ページめ
 通常の理解では太秦という字を書いてもウズマサと読むことはできない。これは太秦という単語が本来「太秦」ではなく「大秦」であったためである。
 同様の事例は聖徳太子の母、間人皇后についても言える。彼女は一時期、京都府北部に滞在していた。その場所は現在も京丹後市間人という地名として残っている。しかし皇后の名前は「ハシヒト」と読むが、地名は「タイザ」と読む。「間人」をそんな風な読み方をするというのは不思議なことである。
 太秦も同様である。
 太と大は字義に差がない。同一であると考えてよい。
 よって「太秦」は「大秦」である、とすることができる。
 では大秦とは何か。
 これはシリア、もしくはローマを指す。
 大秦をシリアとするかローマとするかについては、伝統的に東京大学と京都大学では見解がわかれている。伝統的に東京大学では大秦をローマとし、京都大学では大秦をシリアとしている。
 大秦という単語から思い出されるのは長安の大秦寺である。
 これは六三八年に長安・義寧坊に建立された波斯寺が七四五年に大秦寺へ改称したものである。大秦寺はキリスト教の一派、ネストリウス派の寺院である。ネストリウス派は景教とも呼称する。大秦寺はその後、八四五年の*廃仏廃毀*に遭う。
 さて広隆寺は六二二年秦河勝造立と伝わる寺である。
 境内には大酒神社がある。
 大酒神社は『延喜式』では「大酒」ではなく「大辟」とされている。
 「大辟」の「辟」にもんがまえを添えれば「辟」の字は「闢」となる。
 よって大酒神社は大闢神社であるといえる。
 「大闢」はダビデである。
 そう考えると広隆寺西側にある伊佐良井という井戸の名前も、日本語とは思われない不思議な響きであるなあ。
 太秦が大秦であるということや、大酒神社が大辟神社であり大闢神社であることからして、伊佐良井も日本語ではなくヘブライ語に由来するのだろう。
 このように太秦には景教の影響がある。

二ページめ
 「太秦には景教の影響がある」という主張が始まったのは最近のことではない。太秦と景教の関係に気がついていた人物は江戸時代にも存在した。まずは二人挙げる。
 一人は大田錦城(一七六五〜一八二五)である。
 彼は自身の著書『梧窓漫筆拾遺』の中で長安のキリスト教寺院について▲「大宗・玄宗の大秦寺を建てたるに倣ひて、西京に大秦寺を建てられたること必定と覚ゆ」としたうえで、太秦という地名のいわれについて▲「大秦を何とてウズマサと唱ふべきや。ウズマサと云ふは、胡語蛮語の伝はりたること、明白なり」とし、本堂に祀られている日光菩薩、月光菩薩についても▲「仏家のものとは、努々思はれず、波斯大秦などの天教を奉ずる家の像設けたること、明白なり」とする。
 私も今回、この日光菩薩・月光菩薩を実際に確認しようと思って広隆寺に連絡をしてみたが、断られた。
 大田錦城も『梧窓漫筆拾遺』の中で、広隆寺の日光菩薩・月光菩薩がキリスト教に関係があるというような「こんなことを考えているのは私ひとりなり」と書いている。これは幕府の禁教下にあって自由に発言ができない中、彼が「広隆寺は密かにキリスト教に由来する像を奉っている」ということに気づいてしまったということを示している。錦城は「私だけが隠された真実に気がついているのだ」と周囲になんとかして伝えようとしていたのである。

三ページめ
 もう一人は松浦静山(一七六〇〜一八四一)である。
 彼は自身の著作『甲子夜話 正編』(第六十三巻)の中で牛祭について以下のように述べている。
▲「天主教の徒は牛を尚ぶ」
▲「京師に太秦広隆寺と云あり。かの大秦の教も吾邦に伝へたりしか、此寺今に牛祭と云ことありて、異体の仮面を蒙れる者、牛に乗りて進退すること有るよし」
 また多胡郡の碑についても以下のように述べている。
▲「上州多胡郡の碑にある羊(ひつじ)(人名)は、蓋し遣唐の人なり。後其墓中より……十字架を出だす……唐に景教と云有り……遣唐使も専ら此後の頃なれば、或はこの教を伝来(つたへきた)りしなるべし」
▲「是を『イサアカテツチンギ』(先年舶来の紅毛人)に長崎屋の旅舎にして、上州の御代官より示せしに、『テッチンギ』是を鑑定せよとは甚(はなはだ)不審なりと言しと(この意は、此物は天主教の所用。吾邦制禁のものなる故なり)」
 イサアカテツチンギとは*イザーク・ティツィング*のことである。彼の江戸参府は一七八〇年と一七八二年の二度である。
 *これは一七六五年生まれの大田錦城が、先述のような太秦についての考えについて「二十歳の時……心付きたり」と『梧窓漫筆拾遺』に書いていることからすると、ティツィングの影響があるのだろう。*
 どちらにせよ、太秦と景教の関係は大田錦城や松浦静山のような歴史の知識を持った人物であれば思いつけた着想である。二人とも二十歳くらいのときに思いついている。
 松浦静山が『甲子夜話』でティツィングが鑑定したとする十字架は、多胡碑の近くから発掘されたものである。これは考古学では辻金具という馬具だとされている。多出するため重視されていない。しかし多胡碑の十字架は馬具ではないだろう。
上州の出土品をわざわざ江戸まで持って行きティツィングに鑑定をさせている。これは出土品が十字架であり、キリスト教のものであったからだと理解するのが自然である。

四ページめ
 江戸時代は鎖国をしていたが、全く海外の知識が入らないわけではない。鎖国時代の海をこえた想像力の背景にはどんな情報環境があったのだろうか。当時の知識人が読んでいた文献を挙げる。
 大田錦城の『梧窓漫筆拾遺』では、十一世紀後半の『資治通鑑』が「通鑑をみたるより……心付きたり」、十二世紀初頭の『西渓叢話』が「西渓叢語(ママ)に云 立祆寺号大秦寺」と登場する。松浦静山の『甲子夜話』には、十世紀中頃の『旧唐書』が「太秦寺の事……『旧唐書』にも見ゆ」、十三世紀中頃の『仏祖統記』が「『仏祖統記』云……京師建大秦寺」と書名が登場する。
 大秦景教流行中国碑が出土したのは一六二三年のことであるが、このことは『西学凡』(艾儒略(アレニジウリオ) 一六二三年)や『金石翠編』(一八〇五年)で取り上げられている。
 これらの書物は長崎奉行や書物奉行を歴任した近藤重蔵が自身の著作である『好書故事』七十六巻、七十七巻「禁書」で触れている。
 大田錦城も『梧窓漫筆拾遺』で「西学凡には、唐碑一篇を付載して云」、松浦静山は『甲子夜話』で「唐に景教と云有り。これは『金石翠篇』」と書いており、『西学凡』や『金石翠篇』が当時の知識人の間では広く知られていたことがわかる。
 ところで大田錦城が『梧窓漫筆拾遺』の中でいう「天教」とは一体なんのことだろうか。これはゾロアスター教やマニ教を指すのではないか。

井上氏「劉氏、天教について中国ではどのように考えられていますか」
劉氏 「そのあたりのことはくわしくないのでわからないです」

五ページめ
 景教の歴史について。
 ネストリウス派は、四三一年にローマ帝国エフェソス(現トルコ)の公会議で異端であると認定された。そのため、*東方へ教宣をむける。*彼らはソグディアナ、トルキスタンを経て七世紀に中国へ到達する。
 阿羅本を団長とする*伝導団*が長安へ入城したのは六三五年のことである。
 その後、七八一年に大秦景教流行中国碑が大秦寺の境内に建立された。この碑文は景浄=アダムによるものである。
 景浄はソグド語ができたため、インド出身の僧・般若三蔵とソグド仏典の漢訳に挑んだ。しかしこれは不調に終わり、翻訳はされたものの流布は認められなかった。
 大秦景教流行中国碑が発見されたのは一六二三年のこと。ヨーロッパでは「景教が八世紀には中国に到達していた」という内容を半信半疑で受け止めた。ボルテールは碑の発見をイエズス会による捏造であると主張した。これらのことから、長らく大秦景教流行中国碑そのもの、また碑文を書いたとされる景浄の存在自体が捏造されたものであるとして理解されていた。
 景浄の実在を明らかにしたのは高楠順次郎である。彼は一八九六年に「The Name of “Messia”in a Buddist Book」という英語の論文を発表し、景浄の実在を証明した。この論文は高楠が「メシアの名が仏典に書かれていることを発見した」というものである。高楠によると景浄の名前は『貞元新定釈教目録』という唐代の文書に記載されていたという。
 このように景教は長安に根付いていた。
 また、景浄とともにソグド仏典の漢訳に挑んだ般若三蔵と空海は面識があった。
 空海が入唐したのは八〇四年である。これは景浄と般若三蔵が仏典の漢訳を行っていたのに近い時期である。そのため、空海が般若三蔵を通じて景浄と接触していたと考えても不自然ではない。むしろそうであろうと考えられる。
 空海は中国で密教について学び、大日如来を中心とする仏教観を日本へ持ち帰った。
 中国留学中に景教に触れた空海は「大日如来は神と同様である」という考えを得ている。神とはGod。すなわちGod=大日である。
 景教の「景」という字は「日」と「京」に分けられる。「日」は「日」であり「太陽」。「京」は「都」という意味もあるが、「大きい」という意味もある。
空海が持ち帰った大日如来、「大日」は「大きい」と「日」である。これを上下逆さにすると「大日」は「景」となる。
すなわち「大日」と「景」はイコールだと言える。
「京都」というのはそういう意味のある言葉である。

井上氏「劉氏、このあたりについて中国ではどうですか?」
劉氏 「専門ではないのでわからないです。日本ではそういう考え方もあるんですね。初めて聞きました」
井上氏「景浄とアダム、阿羅本が同一人物であるということですが、これについてはどうですか」
劉氏 「(東北師範大学アカウントへ呼びかけ・以下中国語)●●君、景浄と阿羅本が同一人物であるという論文はありますか? ないの? あるの? 景浄と阿羅本が同一人物であるという論文は中国で出ていないのですか?」
●●「(マイクをつなぎ・日本語)ちょっとそういう研究はわからないです」
劉氏 「そうですか」

六ページめ
 前述の「景」=「日」+「京」、「京」=「大」、「景」=「大日」であるという主張は佐伯好郎による。佐伯は一九一一年発表の『景教碑文研究』の中でそう述べている。
 また『太秦(禹豆麻佐)を論ず』(『歴史地理』一九〇八年一月号)では大酒神社と伊佐良井について取り上げている。一九三五年には『景教の研究』を発表している。
 イスラエルと太秦の関係について発表したのは彼が初めてである。
 服部之総は『原敬百歳』(一九五五年)の中で、佐伯好郎について「ユダヤ人の注意を日本に向けさせる必要がある」「そのために打った第一着手が大秦氏=猶太人の着想であった」と、彼がそのような主張を行った動機を述べている。
 太秦とユダヤとの関係については、大田錦城と松浦静山も気づいており、先述の通り、それぞれ自著の中で「気づいてはならないことに気づいてしまった」というような書きぶりで記している。

七ページめ
 キリスト教と日本の関係を考えるとき、聖徳太子も重要である。
 彼がキリストと同じように馬小屋で誕生したということは『日本書紀』(七二〇年)や『上宮聖徳太子伝補闕記』(九世紀初頭)に記載がある。もっとも「聖徳太子が馬小屋で生まれた」ということは後世の補遺であるとする説もある。
 しかし、久米邦武(一八三九〜一九三一年)は『聖徳太子の対外硬』(『太陽』一九〇四年一月号)の中で、聖徳太子の誕生にまつわる内容を「基督(キリスト)の新約書を焼直したるもの」とした。さらに『上宮太子実録』(一九〇五年)では「隋唐のころに耶蘇教の支那に伝播し、其説を太子の伝に付会し」としている。久米は「聖徳太子が馬小屋で誕生した」という説話は、キリスト教とともにキリスト誕生の場面が中国から日本に伝わったものであるとする。
 意外な主張だと思うだろう。
 けれども、このような理解は当時ポピュラーカルチャーとして大衆に受け入れられていた。
 秦氏については、中里介山が『夢殿』(一九二九年)で鳥仏師の独白として以下のように書いている。鳥仏師は秦氏の祖先について『羅馬(ローマ)とかシリアとかいう国だそうだ』『景教……向うの言葉ではネストとかネストリとかいう』とする。
 キリスト教と太秦の関係については飛鳥昭雄・三神タケル『失われた原始キリスト教徒〈秦氏〉の謎』(一九九五年)でも取り上げられている。平安京が日本のエルサレムだということはこの本に載っていたことだ。
 空海についても、司馬遼太郎が『空海の風景』(一九七五年)の中で、空海が般若三蔵から語学を学んだであろうと書いており、そう考えるとわくわくする。また陳舜臣も『曼荼羅の人・空海求法伝』(一九八四年)で空海が「大秦寺へ行こう」と決意した場面を書いている。
ということは空海と般若三蔵は面識があり、空海は般若三蔵を通じて景浄や景教について学んでいたということだろう。唐で最新の知識を得た空海はその成果として大日を中心とした教えを日本に持ち帰った。
 以上のことから、日ユ同祖論はポピュラーカルチャーとして受け入れられていることがわかる。私は日本の大衆文化研究の一翼を担う者として研究を進めたい。

八ページめ
 バビロンの*言語擾乱*と日ユ同祖論について。
 バビロンの言語擾乱については旧約聖書を見てください。
 日ユ同祖論は、日本人がバビロンの言語擾乱によって離散した十支族の子孫であるとするもの。この考えはヨーロッパで人気があった。
 ペドロ・モレホンは『日本中国見聞録』(一六二一年)で、日本人はユダヤ人の子孫であるという説を否定している。これはモレホンが著書の中で、わざわざ否定しなければならないほど「日本人はユダヤ人の子孫である」という説がヨーロッパで人気があったということだ。
 ケンペルは『日本誌』(一七七七〜一七七九年)で「この民族は疑いもなく、直接にバビロン諸島人の一部がこの島に辿りついた」と書いている。ヨーロッパでは、日本人のルーツがバビロン諸島から日本列島にやってきたものだと理解されていたことがわかる。
 ロドリゲス『日本教会史』(一六二〇〜一六三四年)もレジュメに挙げておく。
 ルイス・フロイスは「日本にはノアの子孫が住んでいる」が「日本人は福音の記憶をなくしている」のだと言っている。
 以上のことから、ヨーロッパでは「日本人はバビロンの言語擾乱で離散した十支族が予言に従って東へと移動したものだ」と理解されていたことがわかる。
 日ユ同祖論はチャールズ・マックファーレン『日本・地理と歴史の物語』(一八五二年)、アンドリュー・シュタインメッツ『同』(一八五九年改訂)、ノーマン・マクロード(マクレオッド)『日本古代史の縮図』(一八七五年)でも取り上げられている。アンドリュー・シュタインメッツは「日本人はモンゴル人だ」としたうえで、ケンペルの主張を引用している。
小谷部全一郎、川守田英二、マーヴィン・トケイヤーも日ユ同祖論を論じている。
両者は「祇園」=「シオン」とこじつけなければならないほど似ている。「大辟」と「ダビデ」、「伊佐良井」などのこともある。
 日ユ同祖論というのは、このような蓄積のある論である。小谷部が主張した通り、日ユ同祖論は二〇世紀におさまる話ではない。
よって、日ユ同祖論は今後もより広く大衆に共有され支持されるべきだ。

質疑
発表終了後、Zoomのチャット機能を使って事前に提出されていた沖見勝也氏のQ1〜3の読み上げと井上氏による回答から質疑が始まった。
質問者は5人である。
Q1〜3の質問は沖見氏が、Q4、Q5、Q6は各質問者がそれぞれ一問ずつ行った。Q7〜Q9の三問は同一の質問者によるものである。
以降の質疑部分は当日の内容に忠実であろう誠実であろうと努めて書き起こしたものである。しかし、先述の通り、録画や録音による完全な再現ではない。
このことは痛恨である。
日文研が研究機関として当該プロジェクトおよび当該研究発表の公開と評価を行い、より広く公の議論に付す目的のため供することが強く望まれる旨、再度申し述べるものである。

Q1、大分県国東半島にあったという「秦王国」についてどう理解するか。同県国東半島の磨崖仏は西域由来のものであるか。
Q2、エルサレムで「ギオン・ゲート」という門を訪れた。この「ギオン」は日本語の「祇園」と似ている。日本語の「祇園」はヘブライ語だと理解してよいか。また八坂神社(京都市)は秦氏と関係があるという。「八坂」も「祇園」と同様、ヘブライ語であるか。
 Q3、秦氏は応神天皇以降、厩戸皇子まで登場しない。その後また秦氏についての記述がなくなり、桓武天皇のころに登場する。なぜ秦氏は表舞台に登場しなくなったのか。この途絶えは何を意味するのか。また、なぜ桓武天皇を助けるために登場するのか。秦氏と桓武天皇の間には、なにか特別なつながりがあると考えるべきか。

A1、秦王国についてはよく知らない。秦王国というのは古くから言われていることではない。たしか磨崖仏は扱いやすい凝灰岩を素材にしている。だから磨崖仏は修験者がプライベートで個人で彫っている。「西域から」というような、そういう影響があるかまでは。
A2、それらがヘブライ語であるという可能性はゼロではないが、音の一致はさして重要ではない。音が似ているものを探すことはあまり意味がない。
A3、天皇家と秦氏との関係といえば徐福だ。徐福が始皇帝の命を受けて日本へやってくる。彼が日本人に大陸の技術を授けたのが始まりだという。そういうところではないか。

 Q4、日本人はイザヤ書の「滅亡後は東へゆけ」という予言に従って東へ移動してきた民族であると理解してよいか。遺伝子によって証明されている。

 A4、具体的に「予言に従って来た」とは言えないが、予言がある以上、「東へ行こう」とはなっただろう。当時は予言が指す「東」が日本列島だとは理解していないと思うが、彼らは日本列島へやってきている。そういうことだろう。

 Q5、シンボルについて。天皇家のシンボルはユニコーンとライオンが対になったものである。エフライム。ユニコーン。ユダ。ライオン。また菊の紋章も使用される。この菊の紋章はサダム・フセインの紋章と似ている。これはどのような意味があるか。

A5、サダム・フセインの紋章は菊ではないよ。太陽だよ。

Q6、(質問なし。質問者から『井上先輩、お久しぶりです』という挨拶ののち短い雑談)

Q6質問者と井上氏の雑談が終わったあと、井上氏と劉氏のやりとりが始まり、参加者は二十分ほどそれを聞くかたちになる。この時点で時刻は三時二十分過ぎであった。
井上氏はそれまで自身の発表内容に直接関係ない質問が続いたことが不本意だったのか、やや苛立っていた様子であったが、Q6質問者終了時点では非常にリラックスして見えた。
当該研究発表が小規模であること。参加者の大半が井上氏および劉氏と既知の関係であること。そのためか、この雑談部分は「楽屋裏」のような印象を受けるものであった。
流れとしては劉氏の疑問に井上氏が答えるという流れである。概ね井上氏は満足した様子であり、劉氏も知的好奇心を刺激され興奮した様子であった。

劉氏 「『滅亡後は東へゆけ』という予言ですが、バベルの塔崩壊後、予言に従った氏族が東へ移動したということですか」
井上氏「それがどの氏族かはわかりませんが」
劉氏 「中国に辿り着いて、そこからさらに東を目指したということでしょうか」
井上氏「秦氏は秦の始皇帝が自分たちの祖先だと言っています。弓月君ですね。徐福が始皇帝の命令で日本へ来ています」
劉氏 「徐福は、彼の上陸地点だという場所が日本に何カ所かありますね」
井上氏「複数箇所ありますね。吉野ヶ里遺跡なんかも徐福が技術の指導をしたといわれています」
劉氏 「そこから神武天皇までは開きがありますが」
井上氏「そういうこともあるでしょう」
劉氏 「それにしても牛祭というのは本当にあった祭ですか。牛祭の『異体の仮面を被って牛に乗って進退する』ですか。そんな風な事柄は初めて聞きました。やはりキリスト教の影響があるのでしょうか。とてもめずらしいですね。●●君、あなた学生に『牛祭はキリスト教と関係がある』という内容で博士論文を書かせなさい。そういう論文ができればとてもおもしろいですよ」
●●氏「(急な呼びかけに驚いた様子でマイクをつなぐ)えっと」
劉氏 「もしあったなら長安と繋がる話ですね。●●君、中国でキリスト教が牛を生け贄にするという話はありますか」
●●氏「ないと思います。イスラム教では羊を捌くことはあるようですが、わかりません」
劉氏 「そうですか。今後の研究が楽しみですね。では質問も出尽くしましたか」

 規定時刻まで十五分ほど残した状態で劉氏が当該研究発表を終了しようとしたところ、質問希望の挙手があった。以降この質問者をQ7質問者もしくはQ7氏とする。
 Q7質問者は冒頭、井上氏の研究発表内容に対して批判的な立場である旨を表明してから質問を開始した。
 また、Q7質問者に対しては劉氏が発言を制止する、マイクの接続を切るなどの行動を行った。そのため、Q7質問者の発言中に劉氏の制止の声が重なる、井上氏の回答中に劉氏が質問者に対して発言するなどの混乱が生じた。よってQ7質問者部分は井上氏、劉氏の発言を挟んで記述する。

 Q7、発表者は自身がレジュメに記載した参考文献の内容を実際に確認しているか。参考文献によると佐伯は中国大陸における植民地支配の理由づけとして日ユ同祖論を主張していたことがわかる。発表者はそれらの内容を確認したうえで「日ユ同祖論は二十世紀だけでなく将来にわたって支持されるべきだ」と主張していると理解してよいか。

井上氏「(苦笑い)私はそのようなことは言っていない」
Q7氏「それは参考文献の内容を自身で確認していないということですか」
井上氏「(回答を行わず、困ったなあ、というしぐさをする)」
劉氏 「やめなさい。切りますよ」
Q7氏「そう理解してよいということですか」
劉氏 「やめなさい」

 Q8はQ7質問者の発言に対して劉氏の制止が行われる中の質問となった。

Q8、Q3に関連して、発表者も「秦氏は桓武天皇による平安京遷都以降、歴史上から消えた」という認識を持っているように理解できる。秦氏に関しては『大日本仏教全書』などに収録されている史料から平安時代以降も存在が確認できる。それらの史料は確認しているか。していた場合、どの史料まで確認しているか。

井上氏「そんなことを言っていたでしょうか」
Q7氏「はい」
劉氏 「時間です。質問をやめなさい」
井上氏「そうですか。秦氏については雄略のころに出てきた覚えがありますが……」
Q7氏「えっ、雄略……?」
劉氏 「やめなさいと言っています。これ以上すると切りますよ」

Q7質問者のマイクがオフになったあと再接続され、劉氏の強い制止の中、「Q9、参考文献に挙げていたペドロ・モレホン『日本中国見聞録』(一六二一年)は実在するか」が行われたが、井上氏による回答はなく、再度Q7質問者のマイクがオフになったようだった。

 その後、何もなかったようにまとめに入り、予定時刻に五分ほど残して当該研究発表は終了した。

以上、書き起こし部分終了。

以下は2023年8月3日付の「由愛@tenjounoao_yume」氏の当該研究発表についてのポストのスクリーンショットである。
このような貴重なポストを残してくださった「由愛@tenjounoao_yume」氏にわれわれは非常に深く感謝をするものである。
この場を借りて「貴重な一次史料として今後も長らく保存活用に供していただきたい」旨申し上げます。

Xアカウント「由愛@tenjounoao_yume」氏
最終確認日2023年12月18日


1枚目(全3枚)


2枚目(全3枚)
3枚目(全3枚)

われわれは「由愛@tenjounoao_yume」氏のように「天皇家の紋章はイスラエルルーツ」や「ヤップ遺伝子」についてとっさに理解できない。

「由愛@tenjounoao_yume」氏のポスト内容と比較すると、われわれでは意味が取りきれなかったQ4部分の
Q4、日本人はイザヤ書の「滅亡後は東へゆけ」という予言に従って東へ移動してきた民族であると理解してよいか。遺伝子によって証明されている。
という部分が「ヤップ遺伝子」であったことがわかる。

また「由愛@tenjounoao_yume」氏が「天皇家の紋章はイスラエルにルーツ」としたQ5部分であるが、
Q5、シンボルについて。天皇家のシンボルはユニコーンとライオンが対になったものである。エフライム。ユニコーン。ユダ。ライオン。また菊の紋章も使用される。この菊の紋章はサダム・フセインの紋章と似ている。これはどのような意味があるか。
A5、サダム・フセインの紋章は菊ではないよ。太陽だよ。

と上記のようにわれわれの理解ではほぼ発言の書き起こしのままになっていることからも、われわれと「由愛@tenjounoao_yume」氏の間に明確な知識および文化的な所属の差があることが理解できる。

より詳細かつ公平な議論の進展のため、国際日本文化研究センターは一刻も早く当該研究プロジェクトの報告および公開を行うよう、熱望する。

ちなみに「東北師範大學」であるが、2023年12月11付で日文研のXアカウントに以下の内容がポストされた。

内容は以下である。

東北師範大学・学術訪問団の訪問を受け入れました(2023年11月29日)

2023.12.11

 11月29日(水)、人間文化研究機構の学術交流協定校である中国・東北師範大学より、韓東育氏(東北師範大学東亜研究院院長・教授)、董灏智氏(同・歴史文化学院院長・教授)以下9名の若手研究者を中心とする学術訪問団が日文研を訪れました。

 井上章一所長(日文研)および韓東育氏からのご挨拶に続き、劉建輝国際交流部会長(日文研)から日文研全体概要の説明と研究紹介および日文研が海外の若手日本研究者支援を大変重視し、目下、特にその事業に注力していることが説明されました。

 その後、ご一行と日文研の教員との間で座談会が開かれ、各自の研究紹介に対して相互に質問やコメントが寄せられ、終始和やかな雰囲気で意見交換が行われました。

 図書館と施設見学の後、ご一行はまた一般公開中のミニ展示「写真絵葉書から見る近代東アジアの風景・風俗」を総研大生の解説付きで観賞し、日文研の豊富な資料所蔵と精緻な資料展示に大いに感心して本センターを後にしました。

(文責:劉建輝 教授)


われわれは「ちょうど人数が合うなあ」と思いました。

このポストは上記の原稿を書き上げたあとに気がついたので、われわれはこの事実についてマジで全く知らなかったのですが。
韓東育氏(東北師範大学東亜研究院院長・教授)ならびに董灏智氏(同・歴史文化学院院長・教授)、若手研究者9名の皆様。
ようこそ京都へおいでくださいました。
おいでのころはちょうど紅葉が綺麗だったのではないかと思います。
皆様に我々の街の美しい季節を楽しんでいただけていたら嬉しいです。
我々は皆様が自由に自身の研究を成し遂げられることを心から願っております。
あの日、我々は「東北師範大學」の方が若手研究者の皆様を劉氏を始めとした日文研側からの発言や要求から守っていらっしゃるように感じておりました。
どうぞ皆様お風邪など召されませんようにご自愛ください。
同じ学問の道をゆく者として、我々も一心に励みます。
おいでやす京都!
嬉しいです!

ところでわれわれ以下の要項でコミックマーケット103(冬コミ)に出展いたします。
上記は新刊の三章立ての第二章部分の抜粋です。
ぜひよろしくお願いいたします!

コミックマーケットのWebカタログはこちらです!

がんばって新幹線代稼ぎます!


最後にもう一度をこちらをどうぞ!
本当に最高に大好きです!

『トンデモ「研究」の見分け方・古代研究編』
「朴斎主頁」 最終確認日2023年12月18日


ついでに昨日あたりからわれわれ非常にびっくりしております。
日文研は一刻も早く当該研究プロジェクトの成果を報告していただきたく熱烈に要望いたします。


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