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2分で読めるニュートン~世界の伝記③~


ニュートンは万有引力の法則を発見した科学者。

読む前は、名前は聞いたことがあるけど「ニュートン=りんご」ぐらいしか知識がありませんでした。


あらすじ

1642年イギリス南東部のウールソープで生まれ、父親はニュートンが生まれる3ヵ月前に亡くなっており母親はニュートンが2歳の時に再婚して祖母と2人の生活が始まる。

小さい頃から機械を作ることが好きで小学校を卒業した後、ウールソープから北へ10km程離れた小都市グランサムの王立の中学校「キングス・スクール」に入学する。(12歳)
キングス・スクールはウールソープから歩いて3時間もかかるため、下宿していた。

叔父(母親の弟)から、母親が子供3人を連れてウールソープに帰ってくるので学校を辞めて農園の仕事をしてほしいと頼まれ、キングス・スクールを辞める。(16歳)

ウールソープに戻って農園の仕事をしていたが、学問への情熱が捨てきれずキングス・スクールに再び戻る。

キングス・スクール卒業後は十三世紀に作られた伝統ある大学、ケンブリッジ大学に進学する。(19歳)

大学で新しく作られた講座の初代教授が当時有名な数学者だったアイザック・バローで、ニュートンはアイザック・バローの指導で研究をさせてもらっていた。

1665年ロンドンからケンブリッジにかけて、かかるとほとんどの命が助からないと言われた伝染病、ペストが大流行して大学が閉鎖されたためウールソープに戻った。(23歳)

ウールソープに戻っていた2年間の間に「万有引力の法則」を発見したり、「反射望遠鏡」を作り出した。

再びケンブリッジへ戻ると大学から研究費と、一家族が1年以上暮らせる年金が支給される特別研究員(=フェロー)に指名された。(25歳)

アイザック・バローに数学教授を引き継いで欲しいとお願いされ、教授になる。
しかし講義が難し過ぎてニュートンの授業は学生から不評だったが、学生が居なくても少しもがっかりせず、むしろ自分の研究が出来ると喜んでいた(27歳)

ロンドンの王立協会に会員として向かいいれられる。(29歳)

光についての論文を王立協会に送ると、王立協会を立ち上げたイギリスの物理学者フックとの長い論争が始まる。

イギリスの太陽・月・星などの天体や宇宙について研究する学問、天文学者でハレー彗星の発見者のハレーに、太陽の周りを回る惑星の軌道は楕円だという「ケプラーの第一法則」を数学的証明をすることを頼まれる。(42歳)

ハレーに論文を渡すと、本として正式な出版を勧められ、ハレーのお金の援助もありニュートンの「自然哲学の数学的諸原理(=プリンキピア)」の原稿が完成し、翌年には全三巻が出版された。(44~45歳)

このプリンキプアによって物理世界を数学によって表し、理解することができるようになった。

ケンブリッジ大学の代表として、国家議員に選ばれるが2年間で1度しか発言しなかったといわれている。(46~48歳)

書斎が火事になり論文も燃えてしまい、精神的に落ち込むが友人の力添えで造幣局の役人になり、3年後に長官となる。(54~57歳)

その後、王立協会の会長となり、「光学」を出版する。(62歳)

80歳のときに病気で倒れ、1727年に84歳で亡くなる。

七世紀頃に作られたキリスト教の寺院で国王はじめイギリスの名高い人々が数多く葬られているウェストミンスター寺院に埋葬される。



学んだこと・感じたこと

・ニュートンは木からりんごが落ちるのを見て、引力を発見した人と思っていたが「引力の法則」を発見した人ということ

・2歳の頃に母親が出て行ったにも関わらず、再婚相手との子供を連れて帰ってくると聞いて自分が大好きな学問を犠牲にしてでも母親のために農園で働くという決断力が素晴らしいと思った

・ペストが大流行して、自分が育った故郷ウールソープに戻った2年間がニュートンにとってかけがえのない時間になったということ

・発想力は普段から勉強して知識があるからこそ出てくる賜物ということ


行動すること

・万有引力を自分で説明できるように勉強する
・万有引力の法則を理解できるように知識を深める

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