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精読「ジェンダー・トラブル」#009 第1章-2 p27

※ 全体の目次はこちらです。

 今回から第1章「〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体」の「二〈セックス/ジェンダー/欲望〉の強制的秩序」を1ページずつ(合計3ページしかありません)精読していきます。

アイデンティティの連帯をつくるために、単一な「女」というカテゴリーが何の疑問もなく引きありに出されるが、ひとたびセックスとジェンダーを区別しようとすると、とたんにフェミニズムの主体には亀裂が走ってしまう。

「ジェンダー・トラブル」p27

 二十数年前、私が学校で〈ジェンダー〉という語を習った時(まだ〈ジェンダー〉という語が物珍しい時代でした)、それは〈文化的な性差〉である、と習いました。また、これと対になるのが〈セックス〉で、それは〈生物学的な性差〉である、と習いました。そして、〈セックス〉は二種類だけですが、〈ジェンダー〉は文化によりいろいろある、と習いました。
 そうだとすると、〈セックス〉に対する〈ジェンダー〉の組み合わせは自由になり、〈セックス〉が女性でも〈ジェンダー〉は男性という組み合わせも、その逆も全然OKとなります。

そうなると、ジェンダーはセックスの多様な解釈だとみなす、このジェンダーとセックスの区別によって、主体の単一性には、すでに潜在的に異議が唱えられていることになる。

「ジェンダー・トラブル」p27

 〈セックス〉に対する〈ジェンダー〉の組み合わせが自由だ、というのが正しいとすると問題になるのが「単一な『女』」です。この「女」は〈セックス〉が女なのか、それとも〈ジェンダー〉が女なのか、となり、もはや「単一」ではなくなってしまいます。

この論理を突きつめると、セックス/ジェンダーの区別は、性別化された身体と、文化的に構築されるジェンダーのあいだの、根本的な断絶を示唆することになる。

「ジェンダー・トラブル」p27

 〈セックス〉と〈ジェンダー〉が「根本的」に「断絶」している(相互に無関係である)、と主張をする人は、私が学生だった2000年前後には少なくありませんでした(とりわけトランスの人に多かったように記憶しています)。
 そういう主張は、確かに理屈では分かるのですが、いっぽうで私はなんだかそれを胡散臭く、そして教条主義のように感じていました。が、なぜそう思うのかは自分の中でうまく説明ができませんでした。

(#010に続きます)


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