今、推しが生まれます。


推しが現実になる瞬間がある。
推しにも、私たち人の個性のように、色んな種類があって二次元や三次元と多種多様なあり方と愛の注ぎ方がある。
それぞれ比べるものでも、順位が有るものではないし、そもそもに人によっては異なるものをなにかで決めるなんて出来ない。

今、言いたいのは「現実になる瞬間」というのは、物理的な距離のことではなくて、推しと自分の心が限りなく近く感じるというすこし抽象的なニュアンスのお話だ。

ある意味で誰よりも近くにいつもいる「推し」。
自分の心のラインの内側にいて当たり前な「推し」。
そうやって常に一緒にいて、想っている存在だからこそ、いつもよりさらに、推しの存在を近くに存在を感じたとき、人は、私たちはきっと涙するんだと思う、

その感覚をどうにか言語化するのなら、「推しが自分の心のなかで現実になった」、文章のいちばんはじめに書いた言葉が私の中では、最も気持ちを乗せられて表現できる言葉に行き着いた。

「憧れるのは、もうやめる。」
今日、行われたWBCでの決勝戦前での激励の言葉として、世界でいちばん注目され、今日いちにち全世界の人間に名を口にされた数がNo.1であろう人間が言った言葉。
そして、その言葉は、ある有名な作品に出てくるキャラクターの発言に似ていて、反響を呼んだ。実は、実際には本人に聞いた人はいないので、用いたかどうかは定かではないところがある。

でも、ソースの不確かさとは別に、身や心が込み上がる喜びの心に気がついたなら、関係なく全力で喜んでもいいのだと私はおもった。

なぜなら真偽はどうあれ、その言葉を聞いて同じことを思った人々がたくさんいた結果が、Twitterのトレンドにキャラクターが生まれたという人々の想いだからだ。

それは、多数の人々にとってすでにそれが真実で、優勝に歓喜して盛り上がるひとつの起因となってもいいとも思うから。
言葉を聞いたときに、既視感を覚え彷彿とする人物がいるのなら、それはとても自然なことだとも思ったから。
その想いを抱いた人間が多かったからこその、集合体がトレンドという目に見える形でワードとなって現れたはずだから。

それはそれぞれの人の心の中に、その人物が生きていたということに変わりがなくて。似た言葉を聞いたこと、心のなかにで生きていた人物が表に出てきた、その結果だから。
きっかけはどうあれ、生まれたことにも大きな大きな存在理由が生まれている。一切嘘偽りのない、混じりけOの心で。

そんなものを、誰かが否定するなど出来るはずがないし、
出来ない。だって集合体の想いなのだから。
消せないし、倒せるはずがない。

メキシコ戦では、手塚ゾーンというワード。
今回の決勝戦の最終対決は、MAJORの主人公と宿敵の相手とのシーンに似ているとも話題になった。
ノンフィクションだろうと、フィクションだろうと関係ない。話題にあがるくらいそれぞれが人々の心に息づいて生きていたのだ。
それはこれ以上ない「推しが現実で生きている姿」だと言えるのではないかと私は感じた。人と想い、人の気持ちで、推しは姿を持つし具現化して、たまに宗教みたいなすっごいパワーを放ったり、私達へと分け与えてくれる、この世界の誰かにとって、とても大好きという存在だ。

私は、その姿はある意味応援にも似ていると思った。誰かの声援や想いを受け取って人は強くもなり、弱くもなる。だけれどテレビの中継などで思うのは何処にいようとサポートしようとするファンの姿だ。

応援は、人の力になる。そして、応援という力というものの、根源は推しへ気持ちを届けることなのだと。

その推しへの気持ちが、きっとどれだけ推しが自分の心に息づいているか現れることになる。

そして今回は、注目度された大きな舞台で、たくさんの人々の気持ちが重なった結果、オタクにとって漫画のような奇跡が生まれた。今回の生まれた一連の騒動は、確かに奇跡ではあるけれど、ひとりひとりの応援の気持ちが重なった結果で、

あらためて、応援することの、想いがひとつになることの強さが証明された「憧れを乗り越えようと」して動いた人たちすべての集合体の結果のように思えてならない。

推しは生きているし、現実だし、そこにちゃんといる。
そして大きな力があるものだと、再確認できた機会で、自分がこの瞬間に立ち会えたことを嬉しく思うし、私自身も自分の推しへの好きの気持ちを大切にしていこうと、おおきく頷いた一日でした。


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