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「えべすさま」


 紫藤燐は、田舎道を歩いていた親子に声をかけた。

「すみません。この近くに『岬』ってありますか? こんなビーチがあるはずなんですけど」

 私は持ってきた写真を親子に見せる。
 父親に、息子か。
 息子のほうは若いし、私と同じ高校生かも。
 親子は顔を見合わせ、

「その砂浜なら『えべす岬』だな。この道をまっすぐ行って、あそこを右に曲がって進めばあるよ。歩いてもいける」
「あっ『えびす岬』っていうんですね? ありがとうございます!」

 父親が答えてくれたので、私は頭を下げてお礼を言った。
 教えてくれた先には山がある。
 夏の暑いなか、歩くのは大変だけど、目的のためだ。

「あっ……」

 私が行こうとすると、男の子が声を漏らした。
 父親が片手を挙げ、

「海には入らんほうがいいよ。何がいるかわからないから。気をつけて」

 にっこり笑う。
 男の子は何か言いたそうだったけど、私から目線をそらした。
 気になったけど、はやる気持ちを抑えられなかったので、さっさと進むことにする。
 さっき父親は『えべす岬』って言ったけど、この地方独特のなまりだと思った。
 標準語に直すと『えびす』だろう。
 えびすは釣りざおにタイを持った、柔和な顔つきをした男の神様で、七福神のひとりだ。
 優しそうな『神様』だから期待大。
 電車、船、バスと、アルバイト代を突っ込んできた初めての遠い田舎。
 観光地でもないし、インターネットで調べても出てこず、母親から聞いた道順でやってきた。

 山道に入ったものの、さっそく道がわからなくなる。
 道を歩いてくる男性を発見。
 リュックサックをせおっているから旅行者か。
 長身でメガネをかけていて、柔和そうだから声をかけることにした。

「あのっ!」
「えっ?」
「この先にきれいなビーチってありますか?」
「あっああ、あのきれいな海か。むちゅうになって写真を撮ってSNSにアップしてたよ。この先にあるよ」
「はい! ありがとうございます!」

 男性に教えられた希望に、私は早歩きしてしまう。

「ほんとにきれいだよ! 写真は撮っときな!」

 旅行者の男性は手を振ってくれていた。

 私は目的の砂浜にたどりついた。

「わあ……。きれい」

 透き通る海の光景に、声が漏れた。
 海水が泡を立て、砂浜を一掃している。
 人が誰もこないのか、ゴミひとつ見つからない。
 塩辛い自然の匂いが濃厚だ。
 私はリュックサックを下ろし、スマートフォンで写真撮影。
 靴を脱いではだしになると、チクチクとした砂の痛みを感じる。
 誰もいないことを確認して、バイト代で買ったワンピースの水着になる。
 ふと、あの親子の言葉が浮かんだ。
『海には入らないほうがいい』と忠告された。
 クラゲとか、サメとかいたらどうしようと迷う。

「……よしっ!」

 私は覚悟を決めた。
 砂浜を走って海に入る。
 遠くで聞こえるセミの声を振り切って、海の中をクロールで泳ぎ始めた。

「気持ちいい……」

 水上は暖かくて、水の中は冷たい。
 自分の心臓の鼓動が聞こえてくる。
 押し返してくる波に負けないよう泳ぎ、私は『神様』を探す。

 鳥の鳴き声がした。
 アホウドリやいろんな鳥が、海に浮いている何かに群がっている。

 ――なんだろ?

 好奇心がまさり、そこに行ってみることにした。
 水泳は得意だ。
 近づいていくと、異様な臭いが鼻をついてきた。


「――なんっ?」


 私の言葉が途絶えた。

 サメの死体だ。

 腹から内臓があふれ出ている。
 鳥たちはサメの死肉をあさっていた。
 吐き気とめまいがする。
 鮮血が海に広がっていた。
 まだ新しい血の流れに、私は戦慄をおぼえた。

「きゃっ!」

 何かに足をつかまれる。
 驚いて、それに蹴りを入れると、大きな力で空中に投げ飛ばされた。
 光景が真っ白になり、気づけば水面にたたきつけられる。

「ぷはっ!」

 あわてて近くの岩に上がった。
 口に入った海水を吐き出す。
 顔についた、ぬれた髪の毛を手ではらう。


「――何?」


 パニックになり呼吸が荒くなる。

「いつっ!」

 左足に痛みが走った。
 ふくらはぎから血が流れている。
 海水で血を洗ってみると、穴が皮膚に並んでいた。

「……歯形?」

 何かの歯形だ。
 人間の歯みたいな歯形で、動物が持つ牙で突き刺し、肉を引きちぎったケガじゃない。
 何か変なのにかまれて、ここまで投げ飛ばされたの?

「海が……」

 さっきまで透き通っていた海が、泥のように濁っていた。
 海の底が見えない。
 つまり『何がいる』のかわからない。
 左足の傷は深くないけど、もう軽快に泳げない。
 自分の顔すら海に映らなくなっている。
 私は唾を飲み込む。
 太陽が真上になるなか、海に『何かがいる』せいで、砂浜にまで帰れない絶望がやってくる。


「おーい!」


 聞いたことのある男性の声。
 道を教えてくれた旅行者が、私に手を振っている。

 ――助かった!

 私は両腕を大きく振り、

「お願い! 助けて! 誰か呼んできて!」

 必死で叫ぶ。
 男は私の状況を理解したのか、

「今助けに行くからな!」

 服を脱いで、下着姿になると海に飛び込んだ。

 待って! なんで!

 私が海で溺れて、岩の上にいると勘違いした?
 私は腕を交差させ、バツ印を作り、


「来ないで! 海に何かいるの!」


 大声で訴える。
 聞こえてない! ここにきちゃう!

「戻って! お願い!」
「うわっ!」

 男が突然水に飲まれた。
 静寂。
 波が波紋を立てている。

「きゃっ!」

 海から何かが飛び出した。
 青い顔をした男と、私の目が、すぐ近くで合う。
 私がいる岩の後ろ側の海に、男は投げ飛ばされていた。

「きゃあああっ!」

 男が次々と海から空へと放り投げられ、私を越えて海水に再び落ちていく。
 この岩場をバレーボールのネットと例えるのなら、男はボールだ。
 私は両耳を手で押さえて、恐ろしさに目を閉じる。
 水面にたたきつけられる音。体にかかってくる水しぶき。
 シャチがアザラシを海から投げつけるシーンが浮かぶ。
 テレビで見た残酷なシーン。
 アザラシを弱らせるためだとしても、弱い者をもてあそんでいる。

 音がやんだ。水玉もかかってこない。
 おそるおそる両目を開けると、海が静かに波音を立てている。
 旅行者は海にいる『何か』に引きずり込まれたのか……。
 パシャ……。
 私がいる岩のそばで、何かがはえてきた。
 手と腕だ。
 海から出て、ゆらゆら揺れている。
 あの人、生きてたんだ!

「すぐ助けるから……」

 私の背中で鳥が鳴いた。
 サメの死肉をあさっていたアホウドリだ。
 私の目に黒い影が飛び込んできた。
 うつぶせになって、海に浮いている、旅行者の男がいる。
 両腕が切断されていて、赤い血が泥の海に食われていた。
 すっと、男は濁った海の底に消える。
 私の顔から血の気が引いた。
 今動いている、子供が人形の腕を持って遊んでいるような動きをしている手は、『誰が』操っているの?


「あなたは――何?」


 私が震え声で言うと、ふらふら動いていた手がピタリと止まった。
 何も言わず、ポチャンと、手は海に沈む。
 あの手をつかんでいたら、私はきっと――。
 頭が真っ白になっていた。
 脱力して体育座りする。
 私のそばにいてくれるのは、羽を休めているのか、岩の隙間に座っているアホウドリだけだ。
 鳥は空を飛べるからまだいいけど、人間は翼がないから無理だし。
 紫外線のせいで肌が黒く変色していく。濁った海みたいに。


 喉が渇いた。水はいつ飲んだっけ?


「……お母さん」


 この海にきたかった理由。病死した母のあの言葉。
 生前、母は私を妊娠したときに、この海にきたことがあると言っていた。
 海は――虹色に輝いていたらしい。
 私は『虹色の海』が見たかった。
 母を失った悲しみを乗り越えるために。
 母は、海の『神様』が自分のことを気に入ってくれて、虹色の海を見せてくれたと喜んでいた。
『神様』にも会いたかった。
 だけどいたのは『悪魔』だ。

 私の足先に海の水が当たる。
 満潮か。この岩礁は干潮だったから海から出てたんだ。
 いつかこの岩は海に沈み、私は『何か』に襲われて死ぬ。
 もうろうとした意識の中で、いっそ海に入って死んでしまおうか――。

「ブォー」

 岩に腰かけていたアホウドリが鳴いた。翼を広げて空へと舞い上がる。
 私を置いて。
 目から涙がにじみ出る。

「おいっ! しっかりしろ!」

 男の声がして、腕をつかまれた。


「ボートに乗れ! 『えべすさま』がくる前に!」


 ふらふらになった私を、男の子がボートまで連れてった。
 写真を見せて、このビーチを教えてくれた、親子の息子のほうだ。
 ゴムボートで助けにきてくれたのか。
 私は足に力が入らず、ひっぱられるままになる。
 化け物に見つからず、どうやってきたのか私は気になり、

「『あれ』はいなくなったの?」
「海の『濁り』が消えてる! 『えべすさま』は自分の『宝』を隠すために海を汚すんだ! あの男を巣に持って帰ってる!」

 男の子は旅行客の男性のことを知っていた。
 死ぬところまで見てたのか。
 私は力のない目で、男の子を見上げる。

「お前らよそ者に言ったはずだぞ――海には入るなって。行くぞ!」

 私の目が男の死を責めているように見えたのか、男の子は目を合わさずボートを岩礁から出した。

 ――助かるんだ。

 私はボートに運ばれながら、海をながめる。
 母の言っていた『虹色の海』とはなんだったのだろう?
 海は透き通ってきれいだけど、何かが違う。

 ――あっ。

 海が一瞬光った。
 透明なビンが海に浮いていて、中に金塊が入っている。
 光る物に、手が反応して取ろうとする。

「さわるな! 罠だ!」

 男の子が叫んだと同時に、私は海に沈んでいた。
 深い。力が入らない。ケガした左足が動かない。
 巨大な気配を感じる。
 黒い大きなモノが海の中にいた。
 あれがサメを食べ、旅行客のおじさんを殺した『悪魔』。
 私を見下ろしている。
 サメみたいに食べるの?
 死を覚悟したとき、気配がじょじょに薄れていった。
 離れてる? なぜ?
 力強い腕が私の体を抱き、海の外へと放り出された。

「ぷはっ!」
「げほっ! げほっ!」

 男の子が海に飛び込んで、私を助けてくれた。
 岩の多い陸へと引き上げられる。
 私はあおむけに転がり、沈みかかった太陽を見上げながら、

「あれが『えべすさま』なの?」
「……そうだ。この岬にはよく金銀財宝が漂流してきていたんだ。俺のご先祖さまは村のみんなで分けてたらしい。だけどその財宝は、あの化け物の宝だった」

 男の子は私のすぐ近くに座り、手で口をぬぐう。

「財宝を取られた化け物は、復讐として人間を襲うようになった。七福神の『えびす』っているだろ? あの釣りざおを持った神様さ。『えびすさま』は海の幸を漂流させて、人間を飢餓から救ったみたいだけど、こっちの化け物は人間を襲うってことで、皮肉を込めて『えべすさま』って呼ばれてるみたいだ」
「そうだったんだ」

 私は男の子の説明で納得した。
 親子はよそ者に関わりたくなかったんじゃない。
 化け物がいる『岬』に関わりたくなかったんだ。
 男の子は心配してきてくれた。
 ありがたい。

「お前はなんでここにきたんだよ?」
「病死した母さんが、私がおなかにいるときに、この海にきたらしいの。神様から『虹色の海』を見せてもらったって。母さんの言うことが正しかったのか、私は確かめにきたの」
「……そっか。それならその神様は『えべすさま』で間違いないな」
「えっ?」
「お母さんのおなかの子供を自分の財宝として気に入ったんだろうな。『子宝』ってやつさ。はは――見てみろよ」

 男の子は笑って、私に指を上げる。
 私は起き上がって海を見てみた。
 濁った海が消えていて――虹色に輝いていた。
 たくさんの色とりどりの宝石が、透き通った海の底で輝いている。
 私の目頭が熱くなった。
 涙があふれ出して止まらない。

「こんなことは初めてだ。人間が海を荒らしてなきゃ、いい神様なのかもな……その、よかったな」

 男の子は両手をにぎって祈る私を見て、照れくさそうに指でほほをかく。


 あったよ。母さん。『虹色の海』は。

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