「セクシーである」という肯定。

・カリスマたちの物事の判断基準はだいたい「善/悪」か「好き/嫌い」で、自愛のカリスマは自分が一番好きだからその自分が好きかどうかで物事を判断しているし、秩序のカリスマは周囲の行動が自分の倫理に反しているかどうかで物事を判断している。
 ただ、七人いるカリスマのひとり、「性のカリスマ」天堂天彦だけは物事を「セクシーですね/セクシーではありません」で判断していて、そのためにかなり信頼できる。
 僕は物事を「快/不快」で判断してしまいがちなので、属性として上位互換的だと考えられる「性のカリスマ」にシンパシーを感じているのかもしれないし、同時にエクスタシーを感じているのかもしれない。

・性のカリスマ天堂天彦は『めちゃめちゃカリスマ』内の一節で「僕たちの○○○○聞いてる皆さんって本当にセクシーですよね」とリスナーである僕を肯定してくれるので、とても好き。

・天堂天彦のカリスマブレイク(カリスマブレイクって何?)した後に公開されたらしいMVの「VIVA LA LIBERATION」ではカリスマブレイク後の特別衣装を纏っている。その衣装が凄くて、なんというかセクシーな衣装といえばヘソ出しとか胸筋を見せるとか、そういうことだと思ってしまいがちだけれど、天堂天彦の衣装は鼠径部だけを見せている。いや、正確に言えば、上着の前が開いている形状になっていて、首からお腹までの肌は見えているんだけど、特に印象に残るのが鼠径部だった。
 逆に言えば、そして下半身に限って言うなら、鼠径部以外は隠されている部分の方が多い。太腿は見えないが、内ももは見える。脛は見えないが、ふくらはぎは見える。みたいな。絶対領域だけを強調している。これがセクシーなんだなと理解した。

・カリスマの一人である伊藤ふみやというキャラクターがシェアハウス仲間の財布から金を抜く回がある。そんなのあるなよという話だが、あるんだから仕方がない。
 平気な顔で窃盗を働いたふみやに対して天堂天彦は「ふみやさん。いくらあなたでもこれはセクシーじゃありませんね」と窘める。
「セクシーじゃありませんね」と言うことが窘めることになっているのかは分からないけど、ニュアンス的には窘めているらしい雰囲気がある。
 この言葉から、天堂天彦は伊藤ふみやのことを基本的にセクシーだと理解しているが、しかし、倫理にもとる行いをしているためにその行動だけはセクシーではないと断じていることが分かる。
 罪を憎んで人を憎まず的な態度は確かにカリスマらしいともいえる。
 ただ、これが僕の話になると途端に不安定に逆転する。カリスマを楽しんでいる人(「凡人」というファンネームらしい)は先述したとおり『めちゃめちゃカリスマ』内で「僕たちの○○○○聞いてる皆さんって本当にセクシーですよね」と天堂天彦から評されている。つまり、僕がセクシーなのではなく、特定の行動をしている時間だけがセクシーなのだ。
 これはつまり、伊藤ふみやに対する天堂天彦評を参考に台詞を改変すると、「○○さん、あなたにしてはセクシーな行いですね」と言われている可能性もあって、もし自分がセクシーではなかったら……と考えると……。

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