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経済政策で人は死ぬか? 公衆衛生学から見た不況対策[デヴィッド・スタックラー&サンジェイ・パス著 橘明美・臼井美子訳]

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 普段、私の本の紹介は「できるだけ内容に触れずに、読書経験を奪わない」事を念頭に置いてきました。本書に関しては要約までご紹介したほうがよいでしょう。

 現在、日本のCOVID-19対応は国や地方自治体の不協和音が生まれ、国民の間にも様々な分断が生じています。感染症対策としても、経済対策としても「為政者が誰も明確なリーダーシップを取らない」という異常事態が生じています。また、今後、確実に未曾有の不況が訪れることは必至です。

 だからこそ、いま読むべき本として紹介したいと思います。

■タイトルの意味と本書の目的

 原著のタイトルはThe Body Economic(Why Austerity Kill)です。

 前段の Body Economic はBody Politic を捩った造語です。Body Politic について、文中には「ある政府の下に組織された集団。集合体としての国民」とあります。この概念に至るまでに、中世の王政統治下の国の意思と国民(body)という歴史があります。こちらを深読みしても面白い結果が出てきます(それはまた別の機会に)

Body Economic は「ある経済政策の下に組織された集団。その政策に影響を受ける国民(ないし人々)」という意味付けがなされています。加えて「単にある人々が属している国の経済対策を意味するだけではなく、経済政策がその人々に与える影響を含む、疫学者による分析」であり、病理的な課題に留まらず、経済回復の様態までを射程に収めています。

 副題は直接的です。Why Austerity Kill(なぜ緊縮(政策)が人を殺すか)「人は死ぬか」ではなく「殺す」です。

 デヴィッド・スタックラーは公衆衛生学修士のあと、政治社会学で博士を取得されいます。サンジェイ・パスは医師、医学博士で、疫学者としても活躍されています。

 そして本書は2人による「査読を受けた」何十本もの論文や、最新の研究成果を書籍として取りまとめたものです。巻末の参考文献、著者論文一覧だけで60頁を超えます。論文は多くの経済・社会科学雑誌に掲載されました。

 しかし、学術誌や論文は一般の人には馴染みが薄いものです。本書には驚くほど数字やグラフが出てきません。その代わりに平易な言葉に置き換えられて説明されています。

 誰もが自分たちの経済と健康について十分な情報を得た上で、民主主義に参加すべきであり、そのための情報を提供することが本書の目的である。わたしたちは往々にしてイデオロギーに走りがちな経済政策議論にもっと事実を、確かな証拠を持ち込むべくだと考えている

 冒頭ですべてを語りきっています。特に経済対策に対する議論はイデオロギーではなく、査読を受け広範に認められた経済論に寄るべきであると、強く感じます。

■骨子

 本書の書き出しは「このたびは、臨床試験にご参加いただき、ありがとうございます」から始まります。経済は社会実験であることを示した言葉です。

 私は経済学に関しては門外漢です。識者から「マルクス、ケインズから、全部さらって出直せ」と言われるかもしれませんが、netでお見かけする声の大きな経済学者?(評論家?)の言説を見るに、結果は変わらないように思います。そしてもちろん、真摯に経済学に取り組む学者たちが居ることも存じているつもりです。

 世にこれだけ「経済学」について一家言ある人がいる中で、実践の手段は限定的です。日本で言えば終局的には、政府の政策決定(体制維持装置としての財務省を含む)と日銀の二者になるでしょう。世界を見据えると為替やマーケットを始め、ツールが増えていきますけどね。

 本書の主張は、タイトルに、そして「まえがき」に明確に示されています。大不況(執筆年からサブプライム問題に端を発した世界不況、加えて過去の大恐慌)の際に政策として取られる手法は以下の二つです。臨床試験になぞらえて、薬という言い方をしています。

1.財政緊縮策:政府債務や財政赤字の増大といった症状の緩和と、景気の落ち込みの治療を目指す薬。具体的には健康保険、失業者支援、住宅補助等への政府支出の削減。

2.財政刺激策:社会的セーフティーネット(健康保険、失業者支援、住宅補助等)への積極的な予算配分。

 私は経済政策は社会実験であると書きました。2人の著者は医療の立場から「ランダム化比較試験」に準ずる方策として、効果測定を行おうとしています。いわゆる「治験」です。そして歴史の中から「同じ不況に巻き込まれた地域で、異なる為政者が異なる政策を実施した事例」を収集し「その選択がどのような結果を生んだか」を実数を基に分析することで、根拠のある「政策と結果の関係」を導き出しています。

 そして結果の評価として、国が国民1人に制作上投資した1ドルが、何ドルの経済成長として実を結ぶかに着目しています(政府支出定数)

 世界各国の地域、歴史の軸を通じて「財政緊縮策」を取った国々は、国民と医療の距離が離れ、失業者に対してモチベーションを伴う支援ではなく、払い切りの(そして充分とは言えない)給付を行い、ホームレスが増える。そして経済も落ち込んでいくという負のスパイラルに入り込んでいくことが、いくつもの具体例から紹介されています。Austerity Kill the People の状況です。

 次項の具体例のなかで、緊縮策について為政者が国民に説明する際に用いる言葉が出てきます。

 「短期の痛み(緊縮)があるかもしれないが、乗り越えた先には景気が回復し・・・」我々もよく聞く言葉ではありませんか?いわゆる、緊縮というイデオロギーによるV字回復を説く言葉です。本書では、成功した事例がありません。痛みの中で人は病み、あるものは死に、路頭に迷い、経済は負のスパイラルから抜け出せなくなります。

 財政刺激策を取った国々は、たしかに不況の影響を受けたものの、健康に与える影響は軽微であり、健全な国民が経済活動を行った結果、苦境を乗り切っています。

 冒頭ですべての骨子を言い切ったあと、私たちひとりひとりのいのちを救うのは、特効薬でも、高度な手術でもなく、為政者の政策であることを、多くの国について根拠を持って例示しています。

 本書の最後は、一番大きなメッセージで締めくくられています。

 どの社会でも、最も重要な資源はその構成員、つまり人間である。したがって健康への投資は、好況時においては賢い選択であり、不況時には緊急かつ不可欠な選択となる

■具体例

○アメリカ:ニューディール政策(財政刺激策)

アメリカは一枚岩ではなく、ニューディール政策においても各州で差異が生じた(有効な自然実験)公衆衛生への政府投資は、単に国民の命を救い、生活の質を向上させるだけではなく、経済にもプラスに働く健全な投資だった

○ソ連崩壊:市場経済への移行(財政緊縮策)

移行速度が早い国で、死亡率、貧困率の上昇が顕著に現れた。そしてロシアは未だ回復していない。

○アジア通貨危機

IMF勧告(財政緊縮策)に従った国々で、貧困率、自殺率、物価の上昇。感染症の拡大。IMF支援を拒否したマレーシアが最初に景気回復

○アイスランド(財政刺激策)

国民投票により、IMF勧告の拒否。200人ほどの富裕層の債務のために銀行が倒産しても社会福祉を優先。早期の経済回復と、財政破綻を再び起こさないためにインターネットを利用した憲法の改正。

○ギリシャ(財政緊縮策)

IMF、EUの勧告をそのまま実施。HIVの再流行。融資が生き残った銀行を経由してヨーロッパ富裕層に逆流。国民投票はEC関係議員により実現せず。いまだ再建ならず。

○医療と市場原理の相性の悪さ

「さかさま医療ケアの法則」:医療を必要としている人ほど医療をうけにくく、医療を必要としていない人ほど医療を受けやすい。医療が必要となるかどうか(需要)は支払い能力とは関係がないのに、医療が受けられるかどうか(供給)は支払い能力に左右される

・アメリカ:オバマケア導入の前後(そしてトランプ政権)

・イギリスNHS(国民全員の負担による医療・介護の無償化、いわゆる「ゆりかごから墓場まで」)から民間委託への移行

○失業対策とうつ、自殺者数の関係

・フィンランド、スェーデンにおけるALMPの成功。失業保険に加えて、積極的な就職斡旋サービス(担当者付き)国民は労働者であり続けられるよう国から支援を受けている。

○ホームレス対策

・ベーカーズフィールドにおける疫病。家がないことによる健康への悪影響。各国政府が住いのセーフティーネットへの投資を減少している現状。

■不況下での政策決定

 2人の著者は不況下における政策決定について、緊縮政策からは距離を起き、ボディーエコノミクス(経済政策がその人々に与える影響を含んだもの)を目指すものを目指すべきとしています。要点として下記の3点が上げられています。

1.有害な方法は決して取らない(ヒポクラテスの誓い)

 民主主義を本当の意味で機能させるには、政策の効果と副作用が解った上で(情報を得た上で)決断することが必要

2.人々を職場に戻す

 ALPM(積極的な失業対策)プログラム

3.公衆衛生への投資

 疾病予防対策(CDC等)の重要性がわかるのは、たいてい手遅れになってから

■今の日本と今後

 本書は大不況(のみ)に直面した際の経済政策のあり方と、健康、経済回復について述べたものです。翻っていまの日本、そして世界は、COVID-19対応に追われています。公衆衛生に大きく舵が切られ、発生期のウイルスの振舞いが解らなかった時期の混乱は収まったものの、依然として医療機関の圧迫、国民の健康不安が継続しています。

 また、緊急自体宣言の要否はいまなお議論が分かれるところですが、人が接触しないこと(今回は自粛という言葉に要約されます)が感染症対策の大前提であることから、経済においてもダメージを受け、今後の先行きについて、国民は不安を持っています。

 緊急事態宣言や経済対策の議論において、失業者数と自殺者数の相関が「経済学側から」提示され、医療や社会保障と、自由な経済活動が二元論的に語られる構図が出来てしまいました。

 本書はまず、失業者数と自殺者数の相関は、医療や社会保障といった政策によって変えることが出来ることを、実例を持って示しています。加えて、社会保障と経済は二元論ではなく、社会を構成していく両輪であることも示しています。

 日本においては「8割おじさん」こと西浦博医師が、医療の側から感染症対策をリードする結果となりました(本来は政府が行う役目だと思います)また、尾身茂医師、岡部信彦医師が「新型コロナウイルス感染症専門家分科会」において、今もなお提言を続けています。

 アメリカにおいては国立アレルギー感染症研究所のアンソニー・ファウチ医師が公衆衛生上の対策を提言しています。

 そして、感染症の専門家で前面に立った医師ほど、非難にさらされ、あるいは脅迫を受けるといった事態が生じています。

 先述したとおり、大不況のみの状態においても財政緊縮策は失敗しています。今回は感染症と戦いながら、同時に経済対策が求められています。医療リソースの消費と接触機会の低減を目指しながら、大不況を乗り切るらなくてはなりません。いまだ誰も見たことがない有効なワクチンが開発されても、基本的な構図は変わりません。

 プライマリーバランスの回復は、体制維持装置としての財務省の目的です。これは閉じた組織内のひとつのイデオロギーです。加えて、景気回復がなければイデオロギーを達することは不可能です。

 ここで財務省、特に官僚の目的について少しだけ触れてみます。体制維持装置という表現には2つの意味があります。

 1つ目は、為政者の無理難題をフィルタリングし、機能としての行政を保つ意味合いです。ホメオスタシス(恒常性)に似た機能で、これは大小を問わずすべての行政機関に存在します。我々は民主党政権の時にこれを利用しています。

 2つ目は、官僚の人事制度です。すべての組織には達成すべき目標があります。組織のホメオスタシスは、常に「少しでも向上する」事を求められています。同時に主として汚職防止を理由に、ひとつのポストの在任期間は数年と限られています。短期間で目に見える形の成果を残すためには、既存の組織目標=イデオロギーを踏襲するのが、彼らにとっての合理性なのです。

 声を大きくした医師たちにより、医療側のカードはほぼ切られました。今後は後遺症が焦点となっていくでしょう。

 冒頭に書いたとおり「為政者が誰も明確なリーダーシップを取らない」状況の中で医療サイドが批判を覚悟しながらもカードを切った理由は「間に合わない」からです。これは医療側の対応ですが、経済側においても責任をアウトソースする態度は、今後も続く可能性があります。

 いま求められているのは、経済学、社会学。弱者を切り捨てる選択をするなら倫理学や哲学の知見であり、医療をも包含した説得力のあるカードです。少数のイデオロギーを超えた、社会全体を、そして未来を見渡す知見です。そしてそれは、観念ではなく有意な根拠とセットになった議論である必要があると考えます。Austerity Kill the People は避けなければならないんです。

欧州各国では明確な第2波、第3波が生じています。米国のデータなどは目を覆いたくなる状況にあります。

 日本はまだ、感染による死者数と、経済による自殺者数の2元論を超えて、感染と経済をコントロールしながら議論をする時間があります。実効再生産数は1.0前後を推移し続けています。

 私が危惧するのは、いま現在活発な議論がなされていない。その一点につきます。

 

 

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