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Short story_月光

Original Perfume "重陽"_composed by Tokyo Sanjin, September 2021.

香りから想起されるイメージ。香りを想起する物語。あなたはこのストーリーからどのような香りを感じますか?

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クヌギやコナラ、楓、トチの茂る森

夏を終えた葉が
差し込む光の中にひとひら、またひとひら舞い落ちる
鳥の声と水のせせらぎを聞く

以前、8月の早朝にここに立った時とは全く香りに包まれている。
カラメルのような甘く芳ばしい香り。
釣り糸を垂れていれば、ただその風景の一部に溶かされていくようだ

水の流れの中に現れる小さな渦
生まれては消え
小さな渦は、大きな渦に呑まれ
形を変える
水面の揺らぎ

水は一時たりとも同じではなく、入れ代わり続ける
渦だけが束の間水面に浮き上がる

そして消え、また新たに生まれる
その波が別の渦を生む

そのようなものが、生命の本質なのだ

彼はそう言った

世界は、その環境を捉えた者の感覚によってのみ成り立つ像(イメージ)
その実体は、どこにも存在しない。

世界とは君の中の感覚が創り上げる、移ろう揺らぎの像にすぎない。
食事や体調が変化すれば、ホルモンや神経伝達物質の増減が、
明日の君の世界を激変させるだろう。
恋愛や失恋が世界の色彩を変えることは君も経験済みじゃないか。

君が今信じて疑わない世界というものは、誰かの世界とは別のものだ。

息が詰まるような、暗く閉じた世界の中で、鼓動を乱して生きる誰かのすぐ横で、
平穏な時を静かに過ごす人がいる。

要るものも要らないものもたくさん抱え込み、それでも明日の不足を嘆く人の横で
眼鏡ひとつかけて、世界の何処へでもその足で向かっていく者がいる。

君自身の意識などに実体はない。

君は今、自分が抱いた幻想の中で、ひとり苦しんでいる。
その苦しみがもし甘いものならば、その苦しみを抱いて今夜も眠ればいい。
さもなくば、ただ手放せばよい。
ただ解き放てばよい。
何も君を縛ってなどいない。君は何にも縛られていない。

君を苦しみに縛り付けているのは君自身だ。

分かっている。

分かっているが...

天に抜ける程の快晴の夏空を、突然覆う午後の黒雲のように、
不意に意識に湧き出すドス黒い邪悪な感情を、避けられなかった。

自分の中に湧き出した黒雲で同じように誰かを覆ってしまいそうになる。
それをただ堪え、この嵐が過ぎ去るのを待つことだけで精一杯だ。

それすら幻想だよ。
嵐も、快晴も、そんなものは君の中にはない。
今はもう現実ですらない、過去の記憶が脇を掠め通っただけだ。

君は初めからずっと自由だよ。
ほら、そこに寝ているイタチのように、梢に止まっている鳥のように、ただ生きていればいい。
何処にでも浮いては消える、この渦のひとつとして。
形を保っている間、君の渦は流れに翻弄され、そしてまわりの流れにも影響を与えている。
すべては変わり続けて、流れて移ろう。
この生を受けている間、思うままに生きよ。

薄暗くなったか、と思うと、いつの間にか日暮れの空になっている。
淡い茜色が広がる東の山の端に巨大な月が浮かびあがる。

川岸にランランを灯し、焚火を起す。
魚籠の中の多くはない釣果を並べ、串に刺し火に当てる。
小さなカワナが3匹。十分だ。
自分が生きるのに必要な量は、それほど多くはない。

ちっぽけな自我なんて、捨てちまうんだね。
全ての生命と同じく、この大きな流れの中に抱かれているのだから、何も恐れることなどない。

月が昇る。
ランタンの影をつくるほどに明るい。
飯盒から湯気が上がる。
普段は食べない白米を焚いた。
久し振りに食欲を感じた。

食事を終え月の光を浴びていた。
もう声はしない。
その夜、森で泊まる予定を変えて、山を下りる。

僕にはまだやるべきことがある。

傷ついた心の癒し?そんなものは、もう必要ない。
ただ向かうべきところに向かうばかり。
夜の山道を照らす月明かり。
鹿が啼く。


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